本連載は、Translational Editor として、学問を暮らしの言葉に翻訳する試みでした。100話を通じて実践してきた翻訳の方法を、改めて整理しておきます。これは本連載の方法論であると同時に、これからの読者が自分の関心領域で同じ作業を行うときの参照点にもなるかもしれません。
第一の原則は、「暮らしの場面から始める」ことです。各話の冒頭は、ほぼすべて読者が経験しているであろう日常の場面から始まります。朝の通勤、夜の食卓、家族との会話、子どもの「なんで?」――こうした具体性が、抽象的な学問への入口になります。「研究によると」から始める論文型ではなく、「あなたも経験したことがあるはず」から始める語り型を、一貫して採用してきました。
第二の原則は、「系譜を辿る」ことです。最先端の研究だけを紹介すると、それがなぜ重要か、何を変えたかが見えません。第5話で取り上げたように、系譜は最新の発見を文脈に置き直します。本連載が4部構成(系譜・登場人物・最先端・暮らしへの翻訳)を採用したのは、この理由からです。
第三の原則は、「日本人研究者を意識的に併記する」ことです。世界の研究は欧米中心で語られがちですが、日本の研究者の貢献は数多くあります。須藤信行・福土審(腸脳軸)、柳沢正史・上田泰己(睡眠)、永澤美保(人犬関係)、村上和雄(笑い)、本田安次(民俗芸能)――こうした研究者を本連載で繰り返し取り上げてきたのは、読者にとっての「学問の近さ」を作るためです。
第四の原則は、「研究知の意外性を入口にする」ことです。タイトルは原則として「視点の転換」を含むかたちにしました。「気分を決めているのは、おなかかもしれない」「集中力は意志ではなく、設計の問題だった」「子どもは『小さな大人』ではなく、別の知性だった」。これらは「実はそうだった」という発見の体験を、タイトルだけで読者に渡そうとする試みでした。
第五の原則は、「学術的観点と暮らしの観点を分離する」ことです。本文は暮らしの観点で書き、学術的詳細は「DEEPER」ボックスに置く。研究者名・論文タイトル・年代・実験詳細などは、本文を妨げないように別レイヤーに配置する。これは「軽さ」と「深さ」を両立させる工夫でした。これらの原則は、暮らしと学問のあいだに橋を架けるための、具体的な技法だったのです。
DEEPER 学術的な観点で深めると ▾
科学コミュニケーション・ナラティブ・翻訳論の系譜は、いくつかの方向で発展してきました。米コーネル大学のブルース・ルーソー、米ノースカロライナ大学のジョン・ベスリーらの「科学コミュニケーション研究」が体系化を進めています。ナラティブ研究では、米コロンビア大学のリタ・シャロン(第73話と共通)の「ナラティブ医療」、米プリンストン大学のジェローム・ブルーナーのナラティブ認知論(1990年)が基礎。翻訳学の理論では、英国のスーザン・バスネット(1980年)、米国のローレンス・ヴェヌティ(1995年)が古典。日本では科学技術社会論の藤垣裕子(東京大学)、サイエンスコミュニケーションの渡部潤一(国立天文台)、教育コミュニケーションの広田照幸(日本大学)らが、日本における科学と社会の翻訳を研究しています。Translational Editorという役割は、これらの系譜を踏まえつつ、特定の対象(学問領域→暮らし)に焦点を絞った実践的な役割として位置づけられます。
本連載は各話 約1,000-1,200字の本文 + 約400-500字の学術ボックス + 3つのSIGNAL + 5つのKEY REFERENCEの標準構造を100話で維持。
タイトル原則v0.3「研究の知が示す視点の転換」を原則100話で採用、視点転換型・常識転覆型・結合発見型・入口提示型の4類型。
本連載で参照した日本人研究者はのべ約80人、約25大学・研究機関。日本の研究の世界的位置づけを意識的に提示。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Charon, R. (2006). Narrative Medicine. Oxford University Press.ナラティブ医療(第73話と共通)。
- Bruner, J. (1990). Acts of Meaning. Harvard University Press.ナラティブ認知論。
- Bassnett, S. (1980). Translation Studies. Methuen.翻訳研究の古典。
- Besley, J. C. et al. (2021). "Three philosophies of science communication." Public Understanding of Science.科学コミュニケーション論。
- 藤垣裕子・廣野喜幸(2008)『科学コミュニケーション論』東京大学出版会日本の科学コミュニケーション論。
翻訳の方法論を整理したなら、次は本連載が答えられなかった、次の100話への問いを置く番です。次回は、まだ書かれていないこれからの問いを、暮らしの未来とともに考えます。
