ブルデューが文化資本の再生産を、ホブズボームが伝統の再構築を理論化したのと同時期、人類学の側から、もう一つの大きな仕事が立ち上がっていました。米国の人類学者クリフォード・ギアツ(1926-2006)の「解釈人類学(interpretive anthropology)」です。
ギアツは、ハーバード大学で社会関係学を学んだあと、1950年代にインドネシアのジャワ島・バリ島・モロッコでフィールドワークを重ねます。1960年代以降、プリンストン高等研究所教授として活躍し、20世紀後半の人類学に革命をもたらしました。
彼の主著『文化の解釈学(The Interpretation of Cultures)』(1973年)の冒頭論文「深い記述:解釈の文化理論に向けて」(厚い記述、Thick Description)は、人類学方法論の決定的な再定義でした。
ギアツが分析哲学者ギルバート・ライルから借用した「厚い記述」の概念は、簡単な例で説明されます。誰かが片目をピクッと動かす行為を、外側から観察すると、すべて同じ「まばたき」に見えます。けれども、それぞれの行為の意味は完全に違う:(1)単なる生理的なまばたき、(2)友人への合図、(3)友人の合図のからかい、(4)友人の合図のからかいの練習、など。同じ身体動作の意味は、それを取り囲む文化的文脈の網の目のなかではじめて決まります。
ギアツは、この洞察を人類学に持ち込みました。文化を理解することは、行動を観察することではなく、行動の背後にある意味の網の目を読み取ることである、と。彼の有名な主張:「人間は自分自身が紡いだ意味の網のなかに吊るされている動物である」。
1972年の論文「バリ島の闘鶏 ― ディープ・プレイの記述(Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight)」は、彼の方法論の代表作になります。バリ島の闘鶏は、表面的には鳥同士の戦いに見えます。けれども、ギアツが厚く記述すると、闘鶏はバリ社会の階級・友情・敵対・名誉・男性性・植民地経験のすべてが凝縮された文化的テクストであることが見えてきます。
1983年、ギアツは続編『ローカル・ノレッジ(Local Knowledge)』を出版します。ここで彼は、各地の文化が持つ固有の知――法律・芸術・宗教・政治――は、他の地域の知に翻訳されきらないローカルな構造を持つ、と論じました。これは、グローバル化の時代に重要な問題提起です。
注目すべきは、ギアツの仕事が、ホブズボームの「創られた伝統」と補完関係にあることです。ホブズボームは、伝統が外側から見ると新しい構築物であることを示しました。ギアツは、同じ伝統が内側から見ると意味の厚い網の目であることを示しました。両者は、「物語の循環は、外側からは構築、内側からは継承」という両面性を、別の角度から記述したのです。
物語循環は、この外側と内側の二重性のなかで存続します。
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ギアツの厚い記述・ローカル・ノレッジの発想は、現代経営の「地域市場理解」「文化適応」「組織エスノグラフィー」に深く応用されています。
第一に、「現地化(localization)」を超えた「ローカル・ノレッジ」の経営。グローバル企業の現地展開で、表面的な現地化(言語翻訳、現地素材使用)と、深層の現地化(地域の意味の網の目への参加)は別物です。スターバックスが日本進出(1996年)で行った京都・寺町二条店、東京ミッドタウン店などの地域固有の店舗デザインや、ユニクロが米国・欧州・中国で各地のファッション意味体系を学んだ過程は、ギアツ的なローカル・ノレッジの経営的応用です。
第二に、「組織エスノグラフィー」の活用。社員一人ひとりの行動を観察するのではなく、社員たちが共有する意味の網の目を理解する組織研究は、過去20年で急速に進展しました。Ed Schein "Organizational Culture and Leadership"(1985年/2017年第5版)、John Van Maanen "Tales of the Field"(1988年/2011年)が代表テキスト。Microsoft、Google、IBM、Toyota が社内のエスノグラファーを採用し、組織の暗黙の文化を読み解いています。
第三に、ユーザー・リサーチの「厚い記述」。デザインリサーチ、UXリサーチ、ジョブ理論(Christensen "Competing Against Luck"、2016年)の方法論は、表面的な購買動機ではなく、ユーザーが商品・サービスに付与している意味の網の目を読み解く実践です。IDEO、Frog、IDEU、Ziba――これらの世界的デザインコンサルティング会社の方法論的核心に、ギアツの厚い記述があります。
組織も市場も社会も、薄く観察するのと厚く解釈するのとでは、見える景色がまるで違います。
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2. 異分野からの発展的視点 ― ボロディツキーが解いた「言語が空間認知を作り変える」
ギアツが「人間は意味の網のなかに吊るされている」と書いた哲学的命題を、認知科学はオーストラリア先住民の野外調査で実証しました。米スタンフォード大学(当時)のレラ・ボロディツキー(Lera Boroditsky)の研究です(*Australian Journal of Linguistics* 30巻, 57-71頁, 2010)。
オーストラリア・クイーンズランド州の先住民クーク・タイヨレ(Kuuk Thaayorre)には、「左・右」という相対方向の語彙がありません。代わりに常に「東・西・南・北」という絶対方向で位置を指示します。「カップを北東に動かして」「あなたの南東の足が痛い」というふうに。ボロディツキーらは、彼らに時間順序を表すカードを並べさせる実験を行いました。英語話者は左から右に並べ、ヘブライ語話者は右から左に並べるのに対し、クーク・タイヨレ話者は 常に「東から西」へ並べた のです ―― 自分が向いている方向に関係なく。彼らの時間認識は太陽の運行と完全に同期していました。
ギアツが解釈人類学で記述した「同じまばたきが、文化的文脈の違いで別の意味を持つ」という洞察は、認知科学が独立に到達した観測事実と整合します。文化とは、外側の記号体系であると同時に、知覚と思考そのものを編集する内部装置でもあったのです。ローカルナレッジは比喩ではなく、認知の深部に刻まれた現実でした。
次回は「記憶の場 ― ピエール・ノラ」をお届けします。
