ブルデューが「文化資本は世代を超えて継承される」ことを示したのに対し、まったく逆の方向から、もうひとつの大きな発見を世に問うた歴史家がいました。エリック・ホブズボーム(1917-2012)。彼が1983年にテレンス・レンジャーと共編した『創られた伝統(The Invention of Tradition)』は、20世紀後半の歴史学・人類学・政治学を揺るがした名著です。
ホブズボームの主張は、最初に聞くと衝撃的です。私たちが「古くから続く伝統」と信じている多くの慣習は、実は近代以降に意図的に作られたものである、と。彼はこれを「創られた伝統(invented tradition)」と呼びました。
本書には、5本の論文が収録されています。最も有名な事例は、ヒュー・トレヴァー=ローパー「スコットランドの高地伝統」です。スコットランド人の象徴とされるキルト(タータン格子のスカート)と一族別タータンは、何百年もの伝統だと信じられてきました。トレヴァー=ローパーは、史料を緻密に追い、これらの「伝統」が、実は18世紀末から19世紀前半にかけて発明されたものであることを実証しました。キルト(短いスカート型)の発明は1727年(イングランドの製造業者によるもの)、一族別タータン体系の発明は1822年のジョージ4世のスコットランド訪問時。それまでスコットランド高地人は、ばらばらの長い格子布を巻いていただけでした。
ホブズボーム自身が書いた論文「英国王室の儀礼」も、同じ反転を示します。エリザベス女王戴冠式(1953年)に代表される英国王室の儀礼は、「千年の伝統」と語られますが、その大半は19世紀末から20世紀初頭に作られたものでした。ヴィクトリア女王治世末期(1880年代後半)以降、英国は帝国の権威を象徴する儀礼を意識的に整備したのです。
レンジャーが書いた「植民地アフリカの伝統」は、さらに射程が長い。アフリカ各地の「部族の長老制度」「部族の慣習法」のかなりの部分が、英国植民地行政官と現地エリートの共同作業で19世紀末から20世紀初頭に体系化されたもので、それ以前の社会には別の構造があった、というのです。
そして、本書には収録されていませんが、近代日本の天皇制儀式も同種の事例として、ホブズボーム以後の研究で指摘されています。多賀大社・伊勢神宮の式年遷宮などは古代から続く儀礼ですが、明治神宮の創建(1920年)、紀元節の整備(1872年)、国家神道の体系化(1870-80年代)など、近代以降に整備された「伝統」は数多くあります。歴史学者高木博志などが詳細に研究しています。
ホブズボームの仕事の意味は、伝統を「ニセモノ」と暴くことではありません。彼の核心は、伝統は発見されるものではなく、作られるものであり、必要に応じて再作成されるという洞察です。19世紀ヨーロッパで「伝統」が大量に作られたのは、近代国民国家が国民の集合的アイデンティティを必要としたからでした。物語は循環するけれども、その循環は単純な継承ではなく、継承される過程で再構築されている。
伝統は、過去から来るのではなく、現在から過去へと、書き戻されるものです。
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ホブズボームの「創られた伝統」論を、現代経営の文脈で読み直すと、3つの実用的視点が立ち上がります。
第一に、自社の「伝統」の意識的な編集。100年以上続く老舗企業の多くは、自社の歴史を選択的に編集することで、現代的な物語を立ち上げています。Tiffany & Co.(1837年創業)、Coca-Cola(1886年創業)、トヨタ自動車(1937年創業)、サントリー(1899年寿屋設立)――これらの企業は、創業ストーリーを定期的に語り直し、現代の事業戦略との整合性を取り続けています。「変わらないもの」と「変わるもの」を意識的に編集することは、経営の中核仕事です。
第二に、「ヘリテージ・ブランド」の戦略的活用。Burberry(1856年)、Louis Vuitton(1854年)、Gucci(1921年)、Cartier(1847年)、伊勢丹(1886年)など、ヘリテージ・ブランドが「伝統」を競争優位に変えるためには、ホブズボームの示した洞察が要ります。伝統を凍結するのではなく、定期的に再発明する戦略が、長期的な存続を保証します。バーバリーがクリストファー・ベイリー(2001-2018)、リカルド・ティッシ(2018-2022)、ダニエル・リー(2022-)と、デザイナーを変えながら伝統を更新していく動きは、その代表事例です。
第三に、業界・コミュニティ・地域の「伝統」を作る投資。ある地域で長期的なプレゼンスを築こうとする企業は、その地域の物語循環に意識的に貢献することが要ります。京都・嵐山の宿泊業界、軽井沢のリゾート業界、奈良の観光業界、横浜の海岸通り――これらの地域の「伝統」は、現代の事業者が日々再発明している共同作品です。
伝統は、保存するものではなく、現代の手で書き直し続けるものです。
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2. 異分野からの発展的視点 ― カヴァリ=スフォルツァが書いた「文化伝達の方程式」
ホブズボームが歴史実証で示した「数十年で発明された儀礼が、数世代後には『千年の伝統』として揺るぎない実体を獲得する」現象を、集団遺伝学は数理の言葉で語り直しています。1981年、スタンフォード大学の集団遺伝学者ルイジ・ルカ・カヴァリ=スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)と数学者マーカス・フェルドマンは『Cultural Transmission and Evolution』(Princeton UP)を上梓しました。
二人が提示したのは、文化形質の複製を遺伝子伝達と同型の差分方程式で記述する枠組みです。鍵となったのは伝達形式の三分類 ―― 親から子への垂直伝達、世代内の水平伝達、教師など限られた発信者からの斜行伝達 ―― で、それぞれ拡散速度と固定確率が桁違いに異なる。19世紀末ヨーロッパで王室儀礼やナショナル・シンボルが学校教育・新聞・記念碑(斜行伝達)を介して急速に普及し、20世紀前半に「不変の伝統」として体感された経路は、この理論モデルが予言する固定速度とほぼ一致します。
ホブズボームの「創られた伝統」は文学的レトリックではありません。集団遺伝学の数理が独立に到達した文化伝達の必然です。歴史の偶発と数理の必然が重なるとき、伝統は人間社会が条件さえ整えばかならず生成する自己強化的な構造として立ち現れます。
次回は「ローカルナレッジ ― ギアツの厚い記述」をお届けします。
