第III部「物語のかたち」の後半、第8章「物語循環」を始めます。前章「物語付加」が新しい意味を事物に重ねていく動きを扱ったのに対し、本章では、物語が世代と時代を超えて継承され、変容しながら再生される動きを辿ります。最初の話は、20世紀フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の文化資本論です。
ブルデューは、フランスの貧しい山村出身でした。労働者階級の家に生まれ、奨学金で名門校エコール・ノルマル・シュペリウールに進学し、最後にコレージュ・ド・フランス教授(1981年就任)まで上り詰めます。彼自身が、フランスの階層社会を「下から上へ」突き抜けた経験を持つ社会学者でした。だからこそ、彼の社会学は、社会の階層構造がどのように世代を超えて再生産されるかという問いに集中していました。
1970年代から80年代にかけて、ブルデューは『再生産(La Reproduction)』(1970年、ジャン=ピエール・パスロンとの共著)、『ディスタンクシオン(La Distinction)』(1979年)、『実践感覚(Le sens pratique)』(1980年)など、現代社会学の標準テキストを矢継ぎ早に出版しました。
彼の核心的な発見は、社会階層は「経済資本」だけでは再生産されない、ということでした。社会階層を世代を超えて維持するのは、より見えにくい3種類の資本です。
第一に、文化資本(capital culturel)。これにブルデューは3つの形態を区別しました。身体化された(incorporé) 形態 :教養・話し方・所作・嗜好。子どもの頃から長い時間をかけて身につく、いわば「身体に宿る文化」。客体化された(objectivé) 形態:書物、絵画、楽器、デザインされた家具など、所有可能な文化的物。制度化された(institutionnalisé) 形態:学位、資格、賞、肩書き――公的に文化的価値を保証する制度。
第二に、社会関係資本(capital social)。家族・親類・友人・同窓生・職場のネットワーク。困った時に動員できる関係の総体。
第三に、象徴資本(capital symbolique)。名声・正統性・権威。表立っては見えないが、社会的決定に直接作用する力。
そして、これらの資本を取得・運用するハビトゥス(habitus) ――個人の身体に染み込んだ知覚・思考・行動のパターン――が、社会階層の再生産の中核装置になります。中産階級の家庭で生まれ育った子どもは、ハビトゥスとして「博物館は楽しい場所」「クラシック音楽は聞き取れる音楽」「読書は呼吸のように自然な行為」を身につけます。労働者階級の家庭では、別のハビトゥスが身につきます。学校教育は、中産階級のハビトゥスを「正統」とする評価枠組みで子どもを評価するため、結果として階層が再生産されていく。
注目すべきは、文化資本が物語によって継承されることです。家族の食卓での会話、祖父母から聞く昔話、本や映画で見る人物たち、学校で覚える歴史教科書のエピソード――これらの物語の蓄積が、子どものハビトゥスを形作ります。物語は文化資本の主要な伝達装置です。
物語の循環を通じて、社会階層も循環していきます。
FOR MANAGEMENT 経営学的に読み解きたいあなたへ ▾
ブルデューの文化資本論を、現代の人材戦略・組織開発に応用すると、いくつか重要な視点が得られます。
第一に、「採用バイアス」の構造的理解。多くの企業の採用基準は、応募者の文化資本(特に身体化された形態)を、「コミュニケーション能力」「ビジネス感覚」「カルチャーフィット」として評価しています。これは無意識のうちに、特定の階層・育ちの応募者を有利にし、別の応募者を排除する構造を作っています。Dell、Unilever、Goldman Sachsなどがこの問題に向き合い、構造化面接、ブラインド・レジュメ、社会経済的多様性枠の導入で、採用バイアスの是正を進めています。
第二に、社内の「物語」が文化資本を再生産している。社内の食堂での雑談、上司の昔話、社員研修のエピソード、社内SNSの投稿――これらの物語の蓄積が、社員のハビトゥスを形作っています。ハビトゥスが特定の階層・性別・国籍に偏ると、組織の意思決定もそれに偏ります。Inclusion of Diversityの本質は、社内に流通する物語の多様化です。
第三に、自社の「象徴資本」の蓄積。長期的に最も価値が高いのは、ブルデューが「象徴資本」と呼んだ社会的な信頼と正統性です。LVMH、Hermès、Pattagonia、IBM、Microsoftが100年以上の時間軸で構築してきた象徴資本は、決算では計上されない最大の競争優位です。象徴資本は、優れた仕事の蓄積と、それを語る物語の循環によって育てられます。
文化資本も社会関係資本も象徴資本も、物語の循環なくして継承されません。
FOR ACADEMIA 学術的に読み解きたいあなたへ ▾
2. 異分野からの発展的視点 ― ノーブルが脳画像で捉えた「家計所得が大脳皮質の面積を変える」
ブルデューの「文化資本」は長らく社会学の概念でした。それが家庭の経済格差として、あるいは趣味や教養の差として継承される ―― これは観察的に正しい記述でした。2015年、米コロンビア大学の発達神経科学者キンバリー・ノーブル(Kimberly Noble)らの研究は、ハビトゥスが脳の解剖学的構造にまで刻まれていることを衝撃的なデータで示しました(*Nature Neuroscience* 18巻, 773-778頁)。
研究チームは米国全土から3歳から20歳までの1,099人の子どもを集め、MRIで全員の脳を撮影。同時に家計年収・両親の教育年数を記録し、両者の関係を解析しました。結果、家計年収が上昇するほど、子どもの大脳皮質の表面積が対数線形に増加していた。特に言語・読解・実行機能に関わる前頭前野・側頭葉・海馬で効果が顕著で、最貧困層と最富裕層を比較すると、皮質表面積は最大6%の差がありました。さらに、低所得層では家計収入のわずかな増加が皮質に大きな効果をもたらすのに対し、高所得層では効果が頭打ちになる収穫逓減の関係も観察されました。
ブルデューが1979年に『La Distinction』で描いたハビトゥス ―― 身体に染み込んだ知覚と思考のパターン ―― は、神経科学が観察できる発達過程として正確に裏付けられました。物語の継承は隠喩ではなく、子どもの脳の物理的構造を介して進む生物-社会的な事実だったのです。
次回は「伝統の発明 ― ホブズボームの反転」をお届けします。
