プラットフォームが物語の流通インフラを所有する時代に、その対極で、地域の物語を地域の手で取り戻そうとする運動が世界に広がりました。「トランジション・タウン(Transition Town)」運動です。2006年に英国デヴォン州の小さな町トットネスから始まり、2024年時点で50カ国以上、2,000を超えるコミュニティに広がっています。
立ち上げたのは、英国のパーマカルチャー教師ロブ・ホプキンス(1968-)。アイルランドのキンセールで初期版のトランジション計画(Kinsale 2021 Energy Descent Action Plan)を学生たちと作った経験を起点に、2006年9月、トットネスで世界初のトランジション・タウンを宣言します。2008年に出版された『The Transition Handbook』が、運動の体系的な手引書になります。
ホプキンスの起点にあったのは、二つの世界の事実です。第一に、ピークオイル――石油生産が地質学的なピークを超えて減少へ向かう現実。第二に、気候変動――化石燃料経済の継続が地球生命圏の存続を脅かす現実。両者は、20世紀の経済成長物語が到達できない場所へと、人類社会を導きます。
けれども、ホプキンスの仕事の核心は、危機を語ることではなく、希望の物語をどう設計するかに置かれていました。彼の主張は明快です。気候変動・エネルギー危機を「衰退の物語(the story of decline)」として語ると、人々は無力感と否認に陥ります。同じ事実を「移行の物語(the story of transition)」として語ると、人々は地域の手仕事として動き出します。事実は同じでも、付与される物語が違うと、行動が違う。
トランジション・タウンの実装は、12のステップから始まります。地元の有志が集まる「ステアリング・グループ」の結成、地元での啓発イベント、地域内の人材スキルマップの作成、地域通貨の実験(トットネス・ポンドが代表)、エネルギー・食料・建築・教育・経済の各領域でのワーキング・グループの立ち上げ、そして最終段階の「エネルギー・ディセント・アクション・プラン(Energy Descent Action Plan)」の策定。これは、化石燃料依存から段階的に脱却する地域の20年計画です。
注目すべきは、トランジション・タウン運動が、政府や企業の主導ではなく、ボランタリーな地域コミュニティの自発的な動きとして広がったことです。Brixton(ロンドン)、Stroud、Lewes、トットネス(英国)、Sebastopol、Boulder、Portland(米国)、Maleny(豪州)、Lille(フランス)、Witzenhausen(ドイツ)――各地のトランジション・タウンは、それぞれの土地の風土に適応した物語を編み直しています。
日本では、榎本英剛が2008年にトランジション・ジャパンを立ち上げ、神奈川県葉山町、京都府京北町、福岡県糸島市、長野県佐久市など、各地でトランジション・タウンが活動しています。
ホプキンス自身は、2019年の『From What Is to What If』で、運動の次の段階として「ラディカル・イマジネーション」を提唱しています。事実を変えるのではなく、事実から立ち上がる物語のかたちを、私たちは選び直せる、と。
物語は、現実を覆い隠すためにではなく、現実を生きる方法を変えるために、付加される。
FOR MANAGEMENT 経営学的に読み解きたいあなたへ ▾
トランジション・タウン運動から、現代の経営者・組織開発担当が学べる視点を3つ整理します。
第一に、「衰退の物語」を「移行の物語」に書き換える経営。多くの伝統産業(小売、印刷、出版、銀行、自動車)は、デジタル化・気候変動・人口減少を「衰退の不可避」として語ります。同じ事実を「移行の機会」として語る経営判断は、組織のエネルギーをまったく違う方向に動かします。富士フイルム(写真フィルムから化粧品・医療へ)、Maersk(化石燃料海運から脱炭素海運へ)、IKEA(持続可能な家具へ)、京都信用金庫(地域コミュニティ金融へ)が代表事例です。
第二に、地域コモンズへの企業参加。トランジション・タウンは、地域住民の手仕事ですが、地域企業の協賛・参加・連携で大きく前進します。地域銀行・地域メディア・地域スーパー・地域工務店が、トランジション運動に参加することで、地域経済全体のレジリエンスが高まります。日本では京都信用金庫の「コミュニティ・バンク」、岡山県西粟倉村の「百年の森林事業」、徳島県神山町の「神山連合」など、地域企業×地域コモンズの連携の代表事例があります。
第三に、「未来から逆算する物語」の設計。Alex Steffen "The Last Hours of Ancient Sunlight"、ホプキンス "From What Is to What If" は、未来から逆算する物語設計を提案しています。「2050年の自社が、未来から見て誇れる仕事は何か」――この問いから現在の戦略を組み直すバックキャスティングの思考は、現代経営の必須技法になりつつあります。
物語は、未来を予見するのではなく、未来を選び取るための道具です。
FOR ACADEMIA 学術的に読み解きたいあなたへ ▾
2. 異分野からの発展的視点 ― ロックストロームが描いた「9つの惑星境界」
トランジション・タウンが立ち上がってきた背景には、地球システム科学が静かに発し続けてきた警告があります。2009年、スウェーデン・ストックホルム・レジリエンス・センターのヨハン・ロックストローム(Johan Rockström)らは、これを意思決定者に届く形に翻訳した論文を発表しました(*Nature* 461巻, 472-475頁)。
彼らが提示したのは、地球というシステムが安全に機能し続けるために人類が踏み越えてはならない9つの「惑星境界(planetary boundaries)」でした ―― 気候変動、生物圏の完全性、生物地球化学的循環(窒素・リン)、海洋酸性化、土地利用変化、淡水使用、成層圏オゾン、大気中エアロゾル、化学物質汚染。衝撃的だったのは、9つのうちすでに4つ(気候、生物多様性、土地利用、窒素循環)で人類が安全圏を超えていたという観察です。ロックストロームは2023年の更新研究(*Science Advances* 9巻)で、9つのうち6つの境界をすでに超えたと報告しています。
ロブ・ホプキンスのトランジション・タウン、地域通貨、エネルギー・ディセント・アクション・プラン、リジェネラティブ・デザイン ―― これらの草の根の動きが感傷でも逃避でもないのは、地球システム科学が定量化した惑星境界の超過という、冷たい物理的事実が背景にあるからです。物語の書き換えは、惑星スケールで起きている相転移への、人類の集合的応答でした。
次回は「リジェネラティブ・デザイン ― 再生する物語」をお届けします。
