イリイチとフレイレが学校制度を批判してから20年後、別のアプローチで、教育と学習の概念を根本から再定義した二人の研究者がいます。米国カリフォルニア大学アーヴィン校の人類学者ジーン・レイヴと、瑞士生まれの教育学者エティエンヌ・ウェンガーです。1991年、二人の共著『状況的学習(Situated Learning)』は、たった150ページの薄い本で、学習研究の地形を一変させました。
レイヴが1980年代に行った人類学的フィールドワークが、この本の出発点でした。彼女が観察したのは、リベリアのヴァイ族とテイ族の仕立屋、米国カリフォルニアのアルコホーリクス・アノニマス、メキシコの産婆、米国海軍の機関士――どれも、伝統的な「学校」とはまったく違う形で人を一人前にしていく実践でした。新参者は、まず周辺で雑用や見学から始まり、徐々に中心に近い役割を引き受け、最終的に熟練者として共同体に貢献するようになる。
レイヴとウェンガーは、この観察から「正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation、LPP)」という概念を作りました。学習とは、知識の頭の中への蓄積ではなく、実践共同体への参加の仕方の変化である、と。新参者は最初から「不完全な熟練者」ではなく、共同体への正統な参加者で、ただ周辺にいる。徐々に深く参加するうちに、知識・スキル・アイデンティティが同時に変化していきます。
1998年、ウェンガーは単著『実践共同体(Communities of Practice)』で、この理論を体系的に展開しました。実践共同体は3つの要素で定義される、と。領域(domain) :共同体が共通に関心を持つテーマ。共同体(community) :定期的に交流するメンバーシップ。実践(practice) :共同体が共有する具体的な作業・道具・物語・問題解決法。この3つが揃ったときに、実践共同体が成立する。
2002年、ウェンガーがリチャード・マクダーモット、ウィリアム・スナイダーと共著した『実践共同体を育てる(Cultivating Communities of Practice)』は、実践共同体を組織内に意図的に育てる方法論を提示しました。CoP(Communities of Practice)は、この本以降、世界中の企業・NPO・行政の組織開発の標準語彙になります。
注目したいのは、CoP理論がイリイチとフレイレの専門家批判を、別の形で継承していることです。学習は、教師から学生への一方的な知の振り込みではない(フレイレ)。学校制度の枠の中だけで起きるものでもない(イリイチ)。学習は、現場の実践への参加そのものである。専門家は、学習者の主体性を奪わないかたちでしか機能しない。
人は、共同体の中で人になっていきます。
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CoP理論の経営的応用は、近年の知識経営・組織開発の中核になりつつあります。
第一に、社内CoPの意識的な育成。トヨタの「ジショ会」、Boschの「Bosch Group Communities」、IBMの「Communities of Practice Program」、World Bankの「Thematic Groups」、SchlumbergerのEureka!は、実践共同体を意識的に育てる代表事例です。これらは正式な組織図には現れない、けれど確実に組織の知の質を底上げする裏のインフラです。共通する成功条件は、(1)強制ではなく自発、(2)短期業績では評価しない、(3)ナレッジ・スチュワードを置く――の3つです。
第二に、「正統的周辺参加」を新人育成に組み込む。新入社員研修を会議室での座学に閉じ込めるのではなく、実プロジェクトの周辺役割(議事録作成、補助業務、観察)から始めて徐々に中心へ引き入れる設計が、若手の長期的な定着と成長を生みます。Mckinsey、BCG、Bain などのコンサルティング会社のキャリアパスは、まさにLPPの体系化です。リサーチ補佐から始まり、アソシエイト、コンサルタント、マネジャー、パートナーへと、共同体への参加深度が上がっていきます。
第三に、ナレッジ・スチュワードという職能の創出。CoPを育てる人――ナレッジ・スチュワード、コミュニティ・マネジャー、CoPファシリテーター――は、本連載第24話の媒介者の系譜にある現代職能です。専門知識の生産者ではなく、知の循環を支える役割です。Schlumbergerの「Knowledge Champion」、Boschの「Knowledge Steward」、ATTの「Community Sponsor」など。経営層が彼らに高い権限と評価を与える組織のほうが、長期的な競争力を保ちます。
学習は、所有ではなく参加です。
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2. 異分野からの発展的視点 ― リッツォラッティが偶然に見つけた「ミラーニューロン」
レイヴとウェンガーが「正統的周辺参加」と呼んだ学習過程は、なぜ機能するのか。新参者が熟練者を見ているだけで、徐々に同じ動作ができるようになっていく ―― この古来の徒弟制の不思議に、神経科学が偶然のかたちで答えを与えました。1992年、イタリア・パルマ大学のジャコモ・リッツォラッティ(Giacomo Rizzolatti)の研究室で、マカクザルの前頭葉F5野の単一ニューロン記録中に、研究者がサルの目の前でピーナッツを取り上げた瞬間、サル自身が掴むときに発火するはずのニューロンが発火したのです(*Cognitive Brain Research* 3巻, 131-141頁, 1996)。
リッツォラッティらはこのニューロン群を「ミラーニューロン(mirror neurons)」と命名しました。後にヒトでもfMRIで確認され、運動の観察だけでなく意図の理解、共感、言語習得にまで関与することが明らかになっていきます。決定的なのは、ミラーニューロンが他者の動作を観察する経験を、自己の運動野の中で予行演習する装置だったことです。徒弟が親方の手元を見ているとき、徒弟の脳はすでに同じ動作を内的に練習しているのです。
リベリアの仕立屋、メキシコの産婆、米国海軍の機関士、Schlumbergerの技師 ―― レイヴが観察した徒弟制の有効性は、進化が生き物に組み込んだ「他者を経由して自己を学ぶ機構」の社会的拡張でした。実践共同体の理論は、霊長類が数百万年かけて磨いた神経機構の社会版だったのです。
次回は「デザイン思考の制度化」をお届けします。
