第II部の第4章「市民専門家」を、これで一区切りにします。媒介者の人類史、産婆の系譜、市民科学の100年、自助グループ運動、ピアサポートの倫理。5つの話を貫く構造を取り出して、現代の世界各地でこの構造が新しく稼働している現場を3つ訪ねます。
5話を並べて見えてくるのは、ある反転です。長らく「専門家ではない人」と扱われてきた立場の人々が、別の意味の専門家として立ち上がってきた、という反転です。産婆は医師に代わるのではなく、医療の隙間を支える専門家として再登場しました。市民科学者は研究者の補助ではなく、知識生産の共同パートナーとして位置づけ直されました。自助グループの当事者は患者ではなく、「同じ経験を持つ専門家」になりました。ピアサポーターは支援される側ではなく、支援を意図的に再設計する側に回りました。
この反転を支えているのは、本連載が立てる3つの底流のうち、ふたつの交差です。「つくる」のではなく「生まれる」――専門家を上から作るのではなく、現場の中から立ち上がってくる。文脈と新結合――既存の医療や教育や研究の制度と、当事者の経験や知識を新しく結びつけ直す。市民専門家の運動は、この二つの底流が同時に走っている領域だと言えます。
現代の世界でこの構造を体現している現場を、3つ挙げます。
時系列で並べてみます。最も古い系譜から始まる事例として、Cornell Lab of Ornithology / eBirdがあります。コーネル大学鳥類学研究所は1915年に設立され、2002年にeBirdを公開しました。世界中のバードウォッチャーが日々の観察記録を投稿し、その数は累計で十数億件に達しています。投稿データはNature・Science級の論文を支え、IUCNの絶滅危惧種評価にも使われます。バードウォッチャーは「素人」ではなく、長年の観察経験で鳥種同定や生態の機微を読み取る専門家として、研究の共同生産者になりました。市民科学の最も成熟した社会実装と言われています。
時代を進めて2010年代に入ると、医薬品規制の領域でも当事者参画の制度化が始まります。EUPATI(European Patients' Academy on Therapeutic Innovation)は、2012年に欧州医薬品庁(EMA)と患者団体・製薬業界・アカデミアの連合で始まり、患者を「医薬品開発の対等なパートナー」に育てるための体系的な教育プログラムを提供しています。修了生は「EUPATI Fellow」として、規制当局の審議会、臨床試験プロトコルのレビュー、HTA(医療技術評価)の意思決定に参画します。当事者経験を持つ市民が、医薬品規制という最も専門的な領域の専門家として制度に組み込まれる――専門職の境界が下から再交渉されている代表例です。
そして直近、2020年代に入って一気に立ち上がったのが、Patient-Led Research Collaborative(PLRC)です。米国を中心とした数名のLong COVID当事者が、自らの症状と回復過程を記述する手がかりが医学にほとんど存在しないことに気づき、自分たちで調査票を設計し、オンラインで数千人の患者からデータを集めはじめました。Body Politicという当事者コミュニティから派生したこの運動は、査読付き論文を複数発表し、米国NIHのRECOVER研究にも当事者代表として参画するに至っています。患者が研究の対象ではなく、研究の主導者になる――この反転を、わずか数年で制度化された医学研究の中に持ち込んだ事例です。
3つの現場に共通するのは、等身大の専門知を社会に実装したことです。
専門家は、上から作るのではなく、現場から生まれてきます。
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3事例から取り出せる、組織における「市民専門家を育てる」3原則を整理します。
第一に、現場の言葉を経営の言葉に翻訳する人材を確保する。PLRCもEUPATIも、当事者経験を持つ人がガバナンスの中核に座っています。PLRCの理事会はLong COVID当事者で構成され、EUPATIの運営委員会には患者団体代表が議決権を持って参加しています。当事者の苦しみと言葉を直接知る人が意思決定に関わることが、市民専門家を組織として支える前提です。「現場感覚」と「経営判断」を分業させる古典的な組織論は、ここでは機能しません。
第二に、「肩書きではなく経験」で人を測る制度設計。多くの組織は学歴・資格・経歴で人を評価しますが、市民専門家の組織では、当事者経験・現場経験・関係性の深さといった、形式知化しにくい資産が評価軸になります。Cornell Lab/eBirdが「観察年数と同定精度」を貢献度の主要指標にしているのは、論文数や所属重視の伝統的アカデミアとの対照例です。
第三に、専門化と素人性の両立。市民専門家は「素人のまま専門家にもなる」という稀有な職能です。EUPATI Fellowは医薬品開発・薬事規制の体系的な専門研修を受けますが、同時に「患者としての視点」を失わないことが求められます。組織として、専門化と素人性のバランスを失わないための設計――例えばチーム内の役割の意図的な多様化、新規当事者との定期的対話、研修と現場参加の交互配置――が必要です。
経営的には、市民専門家の組織は短期収益化が難しく、長期的な信頼資本の蓄積で機能します。3〜5年スパンの忍耐と、社会価値と経済価値のバランスへの腹のくくりが、ここでも分岐点です。
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2. 異分野からの発展的視点 ― ホン=ペイジが証明した「多様性は能力に勝る」
「素人の集団が、専門家の集団より良い解を出す」 ―― 直感に逆らうこの命題を、定理として証明してしまった研究があります。2004年、ミシガン大学の経済学者Lu HongとScott Pageは、複雑な探索問題における集団の問題解決能力について厳密なシミュレーションを行い、その結果を発表しました(*PNAS* 101巻, 16385-16389頁)。
彼らが示したのは、後に「多様性予測定理(Diversity Prediction Theorem)」と呼ばれる構造でした。最も得点の高い専門家を上から順に20人集めた集団と、無作為に選んだ多様な解法者を20人集めた集団を競わせると、一定の条件下で後者が前者を組織的に上回る。条件はシンプルです ―― 問題が十分に難しく、解法者の認知ツールが多様で、集団の規模がある閾値を超えること。能力の平均が高くても、認知モデルが似通っていれば集団は局所最適に閉じ込められ、能力は劣っても多様な視点を持つ集団は探索空間の異なる谷を見渡すからです。
Patient-Led Research Collaborativeが、医学的訓練を受けていない当事者だけでLong COVIDの203症状クラスターを最初に体系化できた事実は、この定理の臨床現場における再現でした。eBird、EUPATI、PLRC ―― 5話を貫いてきた事例群は、専門家コミュニティの拡張ではなく、社会全体の集合知的探索能力を一段階引き上げる、認知科学的に正当化される実装だったのです。
次回は「中間支援の系譜 ― 産業組合からNPO中間支援へ」をお届けします。
