「ピアサポート(peer support)」という言葉は、ここ20年で大きく広がりました。学校でのいじめ対応、産後うつのサポート、慢性疾患の患者会、職場のメンタルヘルス、災害後の心のケア。けれども、ピアサポートが本当に意味することの倫理的中身は、しばしば誤解されたままです。
「peer」は、対等な仲間、同じ立場の人を意味します。語源はラテン語の「par(同等)」。ピアサポートとは、専門家が下から見上げる関係でも、上から見下ろす関係でもなく、同じ高さに立つ関係でなされる支援です。前話で扱ったAAの12ステップが体現していたように、回復は対等な関係の中で起きる。これが20世紀後半の精神保健福祉領域から立ち上がってきた「リカバリー」概念の核心です。
リカバリー概念を最初に明確に提示した一人は、アメリカの当事者・研究者パトリシア・ディーガンです。1988年のエッセイ「リカバリー:精神疾患リハビリテーションのコンセプト」で彼女は、自分自身が統合失調症と診断された経験を踏まえて、回復は症状の消失ではなく、「意味のある人生を取り戻すプロセス」だと書きました。1993年にウィリアム・アンソニーが「リカバリー視点(recovery vision)」を学術的に体系化し、これが2000年代以降の精神保健政策の中核概念になっていきます。
ピアサポートの倫理を最も深く論じたのは、アメリカの研究者・実践者シェリー・ミードです。2003年の著書『インテンショナル・ピアサポート(Intentional Peer Support)』で、彼女はピアサポートを「単に同じ経験を持つ人による支援」とは区別しました。意図的な(intentional)ピアサポートは、4つの原則に立つ。Connection(つながり)、Worldview(世界観)、Mutuality(相互性)、Moving Toward(共に動く)。なかでもMoving Towardは、解決すべき問題を「あなた」のものにするのではなく、「私たち」が共に動いていく方向として再定義する原則です。
ミードのピアサポート論は、フェミニスト哲学者の系譜に深く根を持っています。1982年、キャロル・ギリガンは『もうひとつの声で』で、伝統的な道徳哲学が暗黙に「自律した個人」を前提としていることを批判し、関係性のなかから生まれる倫理――「ケアの倫理」――を提唱しました。1993年にジョーン・トロントが『モラル・バウンダリーズ』で、ケアを政治理論に持ち込み、2006年にヴァージニア・ヘルドが『ケアの倫理』で哲学的に体系化します。ピアサポートは、ケアの倫理が現場で実装された姿のひとつです。
日本では、北海道浦河町の「べてるの家」で向谷地生良氏らが発展させた「当事者研究」が、独特のかたちでピアサポートの倫理を具現化してきました。「自分自身で、共に」――問題を抱える本人が、自分の困りごとを当事者仲間と共に研究する。研究するのは支援者でも医師でもなく、当事者自身。こうした実践は、近年、世界の精神保健の現場に逆輸入されつつあります。
ピアサポートは、医療制度の補助ではなく、医療制度の前提を問い直す運動です。
FOR MANAGEMENT 経営学的に読み解きたいあなたへ ▾
組織における「ピアサポート」の経営的設計には、3つの典型例があります。
第一に、ピア・コーチング(同僚同士のコーチング)。1990年代以降、IBM、Microsoft、Salesforce、サイボウズなどが、上司・部下関係ではない同僚同士のペアやグループでのコーチングを制度化してきました。これは「教える人と教わる人」の上下関係ではなく、「対等な探求者同士」の関係を組織内に意図的に作る試みです。Yukl & Lepsinger "Improving Leadership Effectiveness" (2005) などの研究で、ピア・コーチングが上司からのコーチングと同等以上の効果を持つことが示されています。
第二に、心理的安全性とピアサポート文化。Amy Edmondson "The Fearless Organization" (2018) が示した心理的安全性は、ピアサポートの文化的基盤です。同僚間で「弱さを見せられる」関係が成立していて初めて、本物のピアサポートが機能します。Googleが2010年代に内部で展開したマインドフルネスとピアサポートの組み合わせ(gPause、Search Inside Yourself)は、心理的安全性とピアサポート文化の現代的実装です。
第三に、メンタルヘルス・チャンピオン制度。英国マインドフルネス連盟、日本のNPO東京メンタルヘルス・スクエアが推進する「メンタルヘルス・ファースト・エイダー」訓練は、専門家ではない一般社員が、同僚の精神的な不調に最初に気づき、寄り添い、適切な専門機関に橋渡しする能力を持つ制度です。これは医療制度のスリム化ではなく、医療と日常のあいだの空白を埋める仕組みです。
ピアサポートの本質は、「対等性」と「意図性」の両立です。一方的な助けではなく、共に動くという覚悟が、倫理的なピアサポートを成立させます。
FOR ACADEMIA 学術的に読み解きたいあなたへ ▾
2. 異分野からの発展的視点 ― シンガーが捉えた「他者の痛みに灯る前部帯状皮質」
「分かるよ」という言葉が、なぜそれだけで人を支えることがあるのか。ピアサポートが現場で繰り返し報告してきたこの謎の輪郭を、ロンドン大学(当時)の神経科学者Tania Singerらが初めて脳活動として描き出しました。2004年、彼女のチームは恋人と共にfMRI装置に入った16組のカップルを対象に画期的な実験を発表します(*Science* 303巻, 1157-1162頁)。
実験は単純です。参加者本人の手、あるいは別室で同時に測定されているパートナーの手に、痛みを伴う電気刺激が無作為に与えられる。「いま恋人が痛みを受けている」という合図を見るだけのとき ―― 自分自身は何の物理的刺激も受けていないとき ―― 前部帯状皮質(ACC)と前島皮質という、痛みの「情動次元」を担当する領域が、本人が痛むときと統計的に区別できないほど活性化したのです。共感は隠喩ではなく、他者の苦しみを目にする行為は「痛みの不快さそのもの」を司る神経回路を自分の脳のなかで文字通り発火させていました。
ミードがピアサポートを定義した「並んで(alongside)立つ」という関係性は、進化が長い時間をかけて私たちの脳に組み込んだ神経基盤の上にたまたま倫理として立ち上がっていた ―― 神経科学がそう教えるとき、ケアの倫理は哲学の専有物ではなく、生物としての人間の構造の一部であることが見えてきます。
次回は「市民専門家のかたち ― 第4章のまとめ」をお届けします。
