「イノベーション」という言葉ほど、日本語のなかで意味の輪郭が曖昧になった外来語もないかもしれません。新規事業の立ち上げから、AIサービスのリリースまで、いっしょくたに「イノベーション」と呼ばれます。しかしこの言葉に最初に学術的な意味を与えた人物――オーストリア=ハンガリー生まれの経済学者ヨーゼフ・シュンペーター――が指していたのは、もっと地味で、もっと深いものでした。
シュンペーターが1911年(独語版)に出した『経済発展の理論』のなかで、彼はイノベーションを 「新結合(neue Kombinationen)」 として定義しました。新しい財の生産、新しい生産方法、新しい市場の開拓、新しい原料の獲得、新しい組織の編成――この5つです。注目すべきは、この5類型がどれも「ゼロから生み出すこと」ではなく、「すでに存在する要素同士の新しい組み合わせ」だ、と言っていることです。
経済学の話を、もう少し前に遡ります。1776年、アダム・スミスは『国富論』の冒頭で、ピン工場の分業を取り上げました。ひとりですべての工程をおこなえば1日に20本も作れない労働者が、針金を伸ばす人・切る人・尖らせる人……と工程を分けると、4万8千本作れるようになる。価値は孤立した労働ではなく、関係の編まれ方から生まれる――スミスの観察は、シュンペーターの新結合を予告しています。
シュンペーターの種は、長い時間をかけて発芽しました。1982年、リチャード・ネルソンとシドニー・ウィンターが『経済変動の進化理論』で、企業を「ルーティンの束」として捉え、変異と選択と複製による進化過程として経済を描きました。2002年、カルロタ・ペレスは『技術革命と金融資本』で、産業革命以来の技術革命が約50〜60年の波として周期的にやってくる、と整理しました。蒸気機関、鉄道、鉄鋼、自動車、情報通信。それぞれの波は、新しい技術の発明だけでなく、古い社会との関係の組み替えで起きます。
ブライアン・アーサーは2009年の『テクノロジーとイノベーション』で、もっと根本的な見方を示します。技術は、すでに存在する技術同士の組合せから新しい技術が立ち上がる、という意味で「内的に進化する」と言うのです。ジェットエンジンは、コンプレッサーとタービンと燃焼室の組合せ。スマートフォンは、電話とコンピュータとカメラとGPSの組合せ。生物の遺伝子組換えと類似した構造で、技術もまた組合せ的に進化します。
つまり「新結合」は、シュンペーターの個別の言葉である以上に、価値が立ち上がる場所そのものを指しています。価値はモノにではなく、文脈との結合に宿る――この見方は、ソーシャルイノベーションの現場で繰り返し確かめられてきた感覚と、深いところでつながっています。本連載のソトコト時代に観察した「伝統の再発明」「ローカルナレッジの再発見」「物語付加」――すべて新結合の変奏です。
価値は、孤立して生まれることはありません。
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経営の現場で「新結合」を実装する代表的な枠組みが、ジェイムス・マーチが1991年の論文 "Exploration and Exploitation in Organizational Learning" で示した二項です。組織は既存の能力を磨く「深化(exploitation)」と、新しい可能性を試す「探索(exploration)」を同時に必要とするけれど、両者は資源を奪い合う。短期業績だけを追えば深化に偏り、長期的に新結合の種が枯れます。
これを発展させたのが、チャールズ・オライリーとマイケル・タッシュマンの「両利きの経営(ambidexterity)」です。2016年の『Lead and Disrupt』で彼らは、深化部門と探索部門を構造的に分離し、トップマネジメントが両者を統合する設計を提示しました。IBMがメインフレーム事業を続けながらクラウドを立ち上げた事例、Amazonが既存EC事業の深化と並行してAWSを生んだ事例が、典型として挙げられます。
実務で新結合を起こすには、3つの仕掛けが要ります。第一に、社内の異質な要素同士を出会わせる「混合の場」(部門横断、世代横断、地理横断のどれか)。第二に、出会いから生まれた仮説を小さく試せる「実験の予算と権限」。第三に、試した結果を経営判断に流し込む「学習の通路」。
新結合は、多くの場合、すでに社内に「ある」もの同士の組み合わせから生まれます。ゼロから新しいものを発明するより、既存資産・既存スキル・既存顧客との関係を、別のかたちで結び直すほうが、確率も速度も上です。「うちにはイノベーションの種がない」というセリフは、たいてい間違っています。種はあって、ただ別の種と出会っていないだけ、という場合が圧倒的に多いのです。
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2. 異分野からの発展的視点 ― マーギュリスが解いた「内共生説と新結合の進化史」
シュンペーターは、経済発展の主役は新たな発明ではなく既存の要素の「新結合」だと書きました。同じ原理が、生命進化の最も深い場面でも働いていたことを示したのは、米国の生物学者リン・マーギュリス(Lynn Margulis)です。1967年、彼女は論文「On the Origin of Mitosing Cells」(*Journal of Theoretical Biology* 14巻, 225-274頁)を発表しました。
当時の主流学説は、複雑な真核細胞は単純な原核細胞からの漸進的な変異で生まれたとするものでした。マーギュリスはこれに正面から異を唱え、私たちの細胞の中にあるミトコンドリアは、かつて独立して生きていた好気性細菌が別の細胞に取り込まれて共生関係になったもの、葉緑体もまた独立したシアノバクテリアの取り込みで生まれた、と主張したのです。論文は十数誌で却下された末にようやく掲載されました。1980年代、ミトコンドリアと葉緑体が独自のDNA・リボソーム・二重膜を持つことが分子生物学的に確認され、内共生説は標準理論として受け入れられます。
シュンペーターが鉄道と郵便、馬車と石炭を例に語った組合せの論理は、35億年前のスケールで、好気性細菌と古細菌の取り込みとして既に生命を駆動していました。新結合は、人間の経済が偶然たどり着いた発想ではなく、生命そのものの作動原理だったのです。
次回は「見えないものへの投資 ― 公共性の思想史」をお届けします。
