社会が静かに変わるとき、いちばんよく支えているのは、目立たないものです。家事、ケア、メンテナンス、信用、関係性、インフラ、公共財。どれも存在しないと社会は回らないけれど、当たり前に整えられている時には誰の視野にも入ってこない。本連載が立てている3つの底流の3つめが、この「見えない領域への投資」です。
古い議論から始めましょう。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは『政治学』のなかで、社会を「オイコス」と「ポリス」の二層に区別しました。オイコスは家政、つまり生活を維持する私的な領域。ポリスは市民が言葉を交わし、共通の善について考える公的な領域。アリストテレスにとって、人が人らしく生きるとは、ポリスに参加することでした。ところが面白いことに、彼はその公的領域を支えているのが、奴隷や女性が担う見えない家政労働だ、ということも明確に書き留めています。表に立つ言葉と、背後の生活を支える労働。この二重構造は、形を変えながら現代まで続きます。
時代を下って、1776年のアダム・スミス。『国富論』はしばしば「市場の見える手」の本として読まれますが、スミス自身は明確に、市場では供給できないものがあると書いています。灯台、防衛、教育、橋、道路。彼はこれらを「公共財(public goods)」と呼びました。市場が活気づくほど、その背後の見えない公共財への配慮は痩せていく――200年以上前の警告です。
20世紀になると、ドイツ生まれの政治哲学者ハンナ・アーレントが、この問題を真正面から論じます。1958年の『人間の条件』で彼女は、近代社会は労働(生命維持のための活動)に支配され、仕事(持続するモノの製作)と活動(公的な言論と協働)が痩せている、と診断しました。何かを生み出しても、それが私的消費に閉じてしまうと、公的な世界はどんどん貧しくなる。アーレントの問いは、戦後の公共性論のルネッサンスをひらきます。
しかし議論には、激しい揺り戻しもありました。1968年、生物学者ガレット・ハーディンが『サイエンス』誌に「コモンズの悲劇」を発表します。共有された牧草地は、各人の合理的選択の結果として必ず荒廃する――だから共有資源は私有化か国有化のどちらかしかない、というロジックでした。長く影響力を持った主張です。
決定的な反論は、1990年に来ます。アメリカの政治学者エリノア・オストロムは『コモンズのガバナンス』で、世界各地のコミュニティが何百年にもわたって、私有化でも国有化でもなく自治によって共有資源を持続させてきた事例を実証しました。スイスのアルプスの放牧地、日本の入会地、フィリピンの灌漑用水。彼女はそこから自治コモンズの8つの設計原理を抽出し、2009年に女性として初めてノーベル経済学賞を受賞します。
近年は、2010年代に「メンテナンス研究」と呼ばれる潮流が立ち上がりました。アンドリュー・ラッセルとリー・ヴィンセルらが、イノベーション崇拝の文化に対して、「派手な革新よりも、地味な維持こそが社会を支えている」と問い直したのです。
社会を変える試みは、しばしば見えない領域から始まります。
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経営の文脈で「見えない投資」は、決算書に乗りにくい資産への投資を意味します。古典的には人材育成、ブランド、企業文化、顧客関係。近年は、心理的安全性、ナレッジ、メンテナンス、データガバナンス、ESG。どれも単独では収益に直結しないけれど、長期の業績に強く効きます。
代表的な研究のひとつが、2012年にGoogleが社内で行った "Project Aristotle" です。多数のチームを比較した結果、生産性を最も強く規定していたのは、メンバーの能力やコミュニケーション量ではなく「心理的安全性」でした。エイミー・エドモンソンが1999年に学術論文として確立した概念が、データで裏打ちされた瞬間です。心理的安全性は決算書には出てこないけれど、現場の意思決定の質を全体として底上げする。これは典型的な「見えない投資」です。
実務的な含意は3つあります。第一に、見えない領域には直接の評価が効かないので、間接的な指標を設計する必要があります(例: eNPS、内部ナレッジ流通量、保守稼働率)。第二に、見えない投資は短期では損に見えるので、経営層の腹のくくりが要ります。3年・5年スパンでの予算固定が現実的な対策です。第三に、見えない投資はいったん削ると見えるかたちで悪化するまで誰も気づかない。事故・離反・破綻が起きた時にはもう遅い。逆算して、平時から守る制度設計が必要です。
ピーター・ドラッカーは「測定できないものは管理できない」と言いましたが、その後の世代は「最も大切なものは測定しにくい」を合言葉にしてきました。両方のあいだで揺れながら、見えないものに投資し続ける胆力こそが、長く続く経営の中核にあります。
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2. 異分野からの発展的視点 ― ペインが解いた「ヒトデの除去が見せた見えない柱」
「見えない投資が公共を支えている」という直観は、生態学のたった一つの実験で極端に鮮明な姿を取りました。1963年、米ワシントン大学の生態学者ロバート・ペイン(Robert Paine)は、潮間帯の決まった一画から肉食性のヒトデ Pisaster ochraceus をひたすら手で取り除く作業を続けました(*American Naturalist* 100巻, 65-75頁, 1966)。
結果は劇的でした。手付かずの隣の区画では15種の生物が共存していたのに、ヒトデを除いた区画では、競争に強いカリフォルニアイガイが急速に岩を覆い、種の数は8まで激減したのです。ペインはこの結果から、群集の構造を不釣り合いに大きく支える種を「キーストーン種」と名づけました。建築の要石 ―― それを抜けば全体が崩れる、けれど存在するときは目立たない石、という比喩です。総バイオマスで1%にも満たない一種が、群集全体の多様性を保っていた。
社会の側に置き換えれば、保育士、看護師、清掃員、メンテナンス労働、地域のお節介な人 ―― いずれも経済統計の表舞台では小さな存在ですが、抜けた途端に共同体の多様性が崩れる類の存在です。アーレントが哲学的に名指した「公共を支える見えない労働」は、ペインがマカ湾の岩礁で計測したものの、社会版にほかなりません。見えない投資を削ると何が起きるかを、生態学はすでに数値で語っているのです。
次回は「ソトコト60回が見せてくれたこと ― 5つのかたちと3つの底流の発見」をお届けします。
