誰もが無料で本を借りることができ、知識にアクセスできる公共図書館。私たちは当然のことのように利用していますが、こうした制度は近代の発明であり、決して当たり前のものではありません。第80話で取り上げたサードプレイス論に加えて、公共図書館は「知の民主化」の象徴でもあります。その歴史と、これからの可能性を、公共圏論の視点から辿ります。
近代的な公共図書館は19世紀後半の英米で誕生しました。1850年の英国「公共図書館法」、1854年のボストン公共図書館の開館、そして米鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが1880-1929年に世界で2,500館以上を建設した「カーネギー図書館」(第80話と関連)――これらは「すべての人に学ぶ機会を」という近代の理念を物質化した試みでした。日本では1872年に書籍館(後の国立国会図書館)が設置され、1899年には公立図書館を法的に位置づけた「図書館令」が制定されました。
公共図書館の意味を理論化したのが、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの「公共圏(Öffentlichkeit)」論(第91話と共通)です。彼は18世紀のヨーロッパで、コーヒーハウス、サロン、出版物を通じて誰もが議論に参加できる「市民的公共圏」が成立し、これが近代民主主義の基盤になったと論じました。公共図書館は、この公共圏の中核装置の一つ――誰もが情報と議論にアクセスできる「物質化された公共圏」――として機能してきたのです。
20世紀後半以降、公共図書館は単なる本の貸出から、地域の総合的な知のハブへと進化してきました。インターネット端末の提供、デジタル資料の整備、コミュニティイベント、子育て支援、シニアの居場所、高校生の学習スペース、地域の歴史アーカイブの保存――こうした多機能化が、近代図書館の理念を21世紀に継承する道として模索されています。
日本では、地域に根ざした新しい図書館の試みが各地で生まれています。塩尻市市民交流センター・えんぱーく(2010年開館)、武蔵野プレイス(2011年)、岐阜市メディアコスモス(2015年、伊東豊雄設計)、太田市美術館・図書館(2017年)――これらは複合的な公共空間として、図書館を再定義する試みです。一方で、自治体財政の縮小、指定管理者制度の影響、専門職員の削減などの課題も継続しています。
デジタル時代の公共図書館は、ハイブリッドな存在へと進化しています。物理的な本と空間、デジタルアーカイブ、リモートアクセス、市民との協働――これらを統合する21世紀型の図書館像が模索されています。これでPART V「文化と公共」18話が完結します。次回からは終章、連載100話の俯瞰に入ります。
DEEPER 学術的な観点で深めると ▾
公共図書館の歴史と理論は、図書館情報学・公共圏論・社会教育論の交差点で研究されてきました。歴史研究では、米国のジェシー・シェラ(1968年)が古典。日本では石井敦・前川恒雄『図書館の発見』(1973年)、塩見昇(大阪教育大学名誉教授)、根本彰(東京大学名誉教授、第80話と共通)らが日本の図書館史と現代論を体系化してきました。公共圏論はユルゲン・ハーバーマス『公共圏の構造転換』(1962年、第91話と共通)が基盤。米シカゴ大学のエリック・クライネンバーグ(2018年)が現代における社会的インフラとしての図書館を再評価。米ペンシルベニア大学のリンダ・グレディアスは公共図書館とコミュニティ形成の研究を進めています。日本の現代図書館論では、片岡早織(前町田市立図書館長)、糸賀雅児(慶應義塾大学)、図書館建築の伊東豊雄(岐阜市メディアコスモス)、新居千秋(塩尻市えんぱーく)などが理論と実践の両面で日本の図書館を進化させてきました。公共図書館は、知の民主化の理念から、現代の地域社会の中核的インフラとして再定義されつつあります。
日本の公共図書館は約3,300館、年間来館者数は約1.7億人、貸出冊数は約6.5億冊(日本図書館協会2023年統計)。
世界の公共図書館は約32万館、世界人口の約60%がアクセス可能(IFLA 2024)。
日本の図書館への年間予算は1人あたり約2,500円、欧米先進国(5,000-8,000円)と比較して低水準(日本図書館協会推計)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Habermas, J. (1962). Strukturwandel der Öffentlichkeit. Suhrkamp.公共圏論の古典(第91話と共通)。
- Klinenberg, E. (2018). Palaces for the People. Crown.社会的インフラとしての図書館。
- Shera, J. H. (1965). Foundations of the Public Library. Shoe String Press.米国図書館史の古典。
- 石井敦・前川恒雄(1973)『図書館の発見』日本放送出版協会日本の図書館論の基礎文献。
- 根本彰(2017)『情報リテラシーのための図書館』みすず書房日本の現代図書館論。
PART V「文化と公共」が完結しました。次回からは終章に入ります。100話を俯瞰し、暮らしと学問の出会いが何を見せてくれたか、これからの暮らしへの問いをまとめていきます。
