PART V 文化と公共 ・ 牧畜 #01
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牧畜の身体感覚は、現代の都市にも生きている

― 動物関係論が示す、家畜と人間の共進化

The Body Sense of Pastoralism Lives On in Modern Cities

牧畜は遠い農村の話だと、私たちは思いがちです。けれど、人類が約1万年前から牧畜を始めたとき、人間と動物の関係は根本から変わりました。その身体感覚は、現代の都市の暮らしのなかにも、静かに残っています。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 人文学 / 動物関係論・生業人類学

都市に住む私たちにとって、牧畜は遠い農村の話だと感じられがちです。羊飼い、酪農家、馬を扱う仕事――こうした生業はテレビのドキュメンタリーで見るくらいで、自分の暮らしとは関係ないと思っています。けれど、約1万年前に人類が牧畜を始めたとき、人間と動物の関係は根本から変わり、それが現代の私たちの身体感覚と社会のかたちにまで、深く影響を及ぼしてきたのです。

英国の歴史人類学者ジェームズ・スコットは『Against the Grain』(2017年)で、農耕と並んで牧畜が人類社会を作り変えた力を論じました。家畜を飼うことは、動物の生活サイクルに自分の生活サイクルを合わせること。朝の搾乳、季節の移牧、出産と病気への対応、毛刈りと屠殺――これらの作業は、自然の時間と動物の身体に従って働く独特の身体感覚を要請します。

モンゴルの遊牧民、北欧のサーミ人、アフリカのマサイ人――世界の牧畜民の研究は、文化人類学の重要な領域です。米国の人類学者E.E.エヴァンズ=プリチャードの『The Nuer』(1940年)は、南スーダンのヌエル人の牛を中心とする社会を描いた古典。日本では生態人類学者の梅棹忠夫(第84話と共通)、文化人類学者の今西錦司・梅棹一行が1955年のカラコルム探検でモンゴルの遊牧文化を調査し、日本の生態人類学の基盤を築きました。

牧畜が人間に残した身体感覚は、いまも私たちのなかに生きています。乳製品を飲める体質――これは家畜化以後に、人類の一部の集団に進化的に獲得された能力です(lactose persistence)。馬に乗ることで生まれた騎乗文化、毛織物の服装文化、肉食の食文化、皮革の利用――これらすべてが、牧畜が人間の身体と暮らしに刻んできた遺産です。

近年、現代社会のなかで牧畜的な感覚を取り戻す動きもあります。家畜と直接関わる体験牧場、ペットとの関係(第57話・第58話と共通)、馬や牛を介在させたセラピー(アニマル・アシステッド・セラピー)。これらは、近代化のなかで失われた動物との身体的な関わりを、別の形で取り戻す試みです。

日々の暮らしのなかで、毎日飲む牛乳、食べる肉、着る毛織物、革製品――これらすべての背後に、何千年も続く牧畜の関係があります。「動物と一緒に生きる」という基本的な人間の経験を、私たちは加工された商品として受け取っているだけ。牧場や酪農家を訪れる、地域の畜産物を意識する、動物との関係に時々目を向ける――こうした小さな行動が、消費を超えた関係の自覚を取り戻すきっかけになります。

DEEPER 学術的な観点で深めると

牧畜と人類社会の研究は、英国の歴史人類学者ジェームズ・スコット(2017年)が現代的な代表作です。生業人類学では、米コーネル大学のフレデリック・ゲイモンド、ノルウェーのフレドリック・バルト(1961年)が古典。米国のエリザベス・キャシュダン、英国のリュック・キャシディらが牧畜民研究を継続。日本では今西錦司、梅棹忠夫(第84話と共通)の生態人類学、京都大学の渡辺仁、福井勝義(京都大学名誉教授)らがアフリカ牧畜民研究を展開。日本の畜産研究では、酪農学園大学・帯広畜産大学などが拠点。動物関係論では、米サンフランシスコ大学のドナ・ハラウェイ(2008年)が、種を超えた関係の哲学を提示。エヴァンズ=プリチャード(1940年)以来の蓄積を持つ牛中心社会の研究は、文化人類学の重要伝統です。乳糖耐性の進化研究では、英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのマーク・トーマスらが大規模ゲノム解析を進めています。

SIGNAL 01

世界の牧畜民・遊牧民は約2億人と推定(FAO 2024)。地球の乾燥地・草原地帯の主要な生業。

SIGNAL 02

北欧・中東・アフリカの一部集団は、家畜化以後に乳糖耐性遺伝子(LCT)の変異を獲得(Tishkoff, S. A. et al. 2007, Nat Genet)。最近1万年の人類進化。

SIGNAL 03

日本の家畜化動物は牛・馬・豚・鶏など、年間総生産額は約3兆円(農林水産省「畜産統計2023」)。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Scott, J. C. (2017). Against the Grain. Yale University Press.農耕・牧畜と国家の歴史人類学。
  • Evans-Pritchard, E. E. (1940). The Nuer. Oxford University Press.牧畜社会人類学の古典。
  • Haraway, D. J. (2008). When Species Meet. University of Minnesota Press.動物関係論の哲学。
  • 梅棹忠夫(1976)『狩猟と遊牧の世界』講談社学術文庫日本の生態人類学。
  • Tishkoff, S. A. et al. (2007). "Convergent adaptation of human lactase persistence." Nat Genet, 39(1): 31-40.乳糖耐性の進化遺伝学。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

牧畜が人類の身体感覚を編んできたなら、近代の文化を編んできた「博物館」もまた、世界の見方そのものを変えてきたはずです。次回は、博物館の誕生が世界の見方をどう変えたかを、博物館学から辿ります。

NEXT EPISODE 第87話「『博物館』が誕生したとき、世界の見方が変わった」 公開を待つ →
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