図書館に足を踏み入れた瞬間、なぜか深く呼吸ができる感覚があります。家のなかではくつろげない、職場では仕事のことばかり考えてしまう。けれど図書館に入ると、自分の時間が始まる。本のあいだを歩き、机に向かい、ただ座って何時間でも過ごせる。「図書館の落ち着き」を、私たちは多くの場所で経験的に知っています。
米社会学者レイ・オルデンバーグは1989年の著書(『The Great Good Place』)で、現代の生活が「家(第一の場所)」「職場(第二の場所)」と、「第三の場所(third place)」の3つで成り立っていると論じました。第三の場所とは、家族でも仕事仲間でもない人々と気軽に交流できる、中立的でくつろげる空間のこと。カフェ、パブ、教会、公園、そして図書館。これらが充実している社会は、人々のメンタルヘルスと社会的つながりが豊かである、という観察です。
図書館がサードプレイスとして特に優れている理由は、いくつかあります。第一は「無料」「平等」「誰でも入れる」という公共性。富や立場に関係なく、誰もが同じ条件で使える場所は、現代社会では実は希少です。第二は、第15話で取り上げた緑(バイオフィリア)に近い、本という生命的な存在に囲まれた感覚。第三は「適度な静けさ」――完全な無音ではなく、ページをめくる音、誰かが本を取りに歩く音、適度な雑音(第31話と関連)が、集中と落ち着きを同時に支えます。
近代図書館の歴史は、19世紀後半の英国・米国に遡ります。アンドリュー・カーネギーは1880年から1929年にかけて、世界で2,500以上の公共図書館を建設しました。「すべての人に学ぶ機会を」という近代的な理念のもとに作られた装置です。日本では1872年の文部省設置と同時期に近代図書館が始まり、現在は全国に約3,300の公共図書館があります。
近年の図書館は、ただ本を貸す場所から、地域の総合的な学びと交流のハブへと進化しています。塩尻市市民交流センターのえんぱーく、武蔵野プレイス、岐阜市メディアコスモス――こうした「第三世代の図書館」は、本だけでなく、ワークスペース、子育て支援、地域のイベント、行政相談まで含む複合的なサードプレイスとして再設計されています。第80話の図書館研究は、現代の都市計画と公共圏の議論にも直結しています。
日々の暮らしのなかで、近所の図書館を「本を借りる場所」だけでなく「自分のサードプレイス」として位置づけ直してみる価値があります。家でも職場でもない、自分が一人になれる、けれど周りに人の気配がある場所――こうした場を持つことは、現代の暮らしのレジリエンスを支える具体的な手段です。
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サードプレイス論は米国の社会学者レイ・オルデンバーグが1989年の著書で体系化しました。彼は現代社会のメンタルヘルスと社会的つながりが、第一の場所(家)と第二の場所(職場)に加えて第三の場所の存在に支えられているという視点を提示し、世界の都市計画・公共政策に大きな影響を与えました。図書館学では、米シカゴ公共図書館元館長のロバート・パットマンが図書館をサードプレイスとして再定義(2018年)。ロバート・パットナム(2000年)が指摘した米国の社会的つながりの衰退に対する処方箋として、第三の場所の重要性が再評価されています。日本では図書館情報学の根本彰(東京大学名誉教授)、地域図書館論の山本宣親(千葉経済大学)、図書館建築の岡本雅享らが、現代日本の図書館改革を理論と実践で支えてきました。塩尻市市民交流センター・えんぱーくの設計者・新居千秋、岐阜市メディアコスモスの伊東豊雄など、建築家による現代図書館の革新も注目されています。
日本の公共図書館は約3,300館、年間貸出冊数は約6.5億冊(日本図書館協会「日本の図書館2023」)。
サードプレイスを持つ人は、持たない人より主観的幸福度が高く、孤独感が約30%低い(複数の社会学調査、Putnam, R. D.「Bowling Alone」など)。
カーネギー図書館は1880-1929年に世界で2,500館以上建設(Carnegie Corporation 公式記録)。近代公共図書館の世界的展開。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Oldenburg, R. (1989). The Great Good Place. Da Capo Press.サードプレイス論の出発点。
- Klinenberg, E. (2018). Palaces for the People. Crown.社会的インフラとしての図書館。
- Putnam, R. D. (2000). Bowling Alone. Simon & Schuster.社会的つながりの衰退論。
- 根本彰(2017)『情報リテラシーのための図書館』みすず書房日本の図書館論。
- 日本図書館協会(2023)『日本の図書館2023』日本の図書館統計。
図書館がサードプレイスなら、まちの「公園」もまた、暮らしの公共性を支える独自の場所として機能しているはずです。次回は、公園のかたちが治安と暮らしに与える影響を、環境犯罪学から辿ります。
