「これはよく効く薬です」と渡されただけで、本当は有効成分が入っていない錠剤でも、痛みが和らいだり、症状が改善したりする。「プラセボ効果」と呼ばれるこの現象を、私たちは長く「気のせい」「思い込み」「暗示」として、医療の世界の脇に置いてきました。本物の治療と比べると、どこか胡散臭い、二流の現象として扱われてきたのです。
けれどここ30年の脳科学は、プラセボに対する見方を大きく変えてきています。プラセボ効果は、心理的な思い込みではなく、脳のなかで起きている確かな神経現象だと、機能的MRIや神経薬理学の実験が次々に示してきたからです。「効くと思って飲む」と、脳のなかで実際に内因性の痛み抑制物質(オピオイド)が放出され、報酬系が活性化し、痛覚処理を担う領域の活動が変化する。プラセボは、心の問題ではなく、心が引き起こす身体の問題だったのです。
これが意味するところは、医療の根本に関わります。あらゆる治療効果のなかには、薬や手術そのものの薬理学的・物理的な効果と、「効くと期待して受ける」ことによって脳が起こす反応の、両方が含まれています。新薬の臨床試験で「プラセボ群」を置くのは、この後者の効果を差し引くためです。けれど近年の研究では、プラセボ効果を「ノイズ」として除去する発想を超えて、それ自体を治療の構成要素として積極的に活用する動きが出てきています。
興味深いのは、プラセボが「偽薬だと知っている場合でも効く」という発見です。米ハーバード大学のテッド・カプチャクらは2010年、過敏性腸症候群の患者に「これはプラセボで、有効成分は入っていません」と説明したうえで処方しても、症状の改善が見られることを報告しました。期待と儀礼の組み合わせが、脳の応答を変えていたのです。「治療を受けている」という文脈そのものが、すでに治療の一部になっている。
日々の暮らしのなかにも、似たメカニズムは働いています。信頼できる医師の前で症状の話をしただけで楽になる、丁寧に淹れたお茶を一杯飲むだけで気持ちが落ち着く、家族からの「大丈夫だよ」という言葉で痛みが軽くなる――これらは「気のせい」ではなく、脳が文脈を読み取って自分に対する治療反応を起こしている、確かな現象です。私たちは互いに、互いのプラセボ装置でもあるのです。
プラセボ効果を「思い込み」として軽視するのは、もう古い見方です。これからの医療と暮らしは、薬理的な効果と、文脈・関係・期待が引き起こす脳の反応の、両方を意識して設計していく時代に入っています。「治す」ことと「治る場をつくる」ことは、別の作業ではないのかもしれません。
DEEPER 学術的な観点で深めると ▾
プラセボ効果の科学的研究は、米麻酔科医ヘンリー・ビーチャーが1955年に医学誌に発表した「The Powerful Placebo」から本格的に始まりました。彼は15の臨床試験のメタ分析で、プラセボがほぼすべての症状に対して35%程度の改善を示すことを報告しました。神経科学的な機構の解明を主導したのが、イタリアのトリノ大学のファブリツィオ・ベネデッティです。彼は1990年代以降、プラセボ鎮痛が内因性オピオイド系を介して起きることを薬理学的に実証し、プラセボ研究を「神経生物学」として確立しました。米コロンビア大学のトール・ワジャーらは2004年、機能的MRIでプラセボ鎮痛時の脳活動の変化を可視化し、プラセボが脳の確かな現象であることを画像で示しました(Science)。米ハーバード大学のテッド・カプチャクらは2010年、「オープンラベル・プラセボ」(偽薬と知らせて投与)でも効果が出ることを報告(PLOS ONE)。米心理学者アービング・カーシュは抗うつ薬の効果の大きな部分がプラセボ反応であるというメタ分析を継続しています。プラセボは医療の脇役ではなく、医療効果の重要な構成要素として位置づけ直されつつあります。
プラセボ鎮痛時、脳内で内因性オピオイドの放出が確認される(Benedetti, F. et al. 2005, J Neurosci, 25(45): 10390-10402)。
偽薬と知らせて投与しても過敏性腸症候群の症状改善が観察される(Kaptchuk, T. J. et al. 2010, PLOS ONE, 5(12): e15591)。
抗うつ薬の臨床試験では効果の約75%がプラセボ反応で説明できるとのメタ分析もある(Kirsch, I. et al. 2008, PLOS Medicine, 5(2): e45)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Beecher, H. K. (1955). "The Powerful Placebo." JAMA, 159(17): 1602-1606.プラセボ研究の出発点。
- Benedetti, F. (2014). Placebo Effects (2nd ed.). Oxford University Press.プラセボ神経生物学の決定版総説。
- Wager, T. D. et al. (2004). "Placebo-Induced Changes in fMRI in the Anticipation and Experience of Pain." Science, 303(5661): 1162-1167.DOI: 10.1126/science.1093065 / プラセボの脳画像研究。
- Kaptchuk, T. J. et al. (2010). "Placebos without Deception." PLOS ONE, 5(12): e15591.DOI: 10.1371/journal.pone.0015591 / オープンラベル・プラセボ。
- Kirsch, I. et al. (2008). "Initial Severity and Antidepressant Benefits." PLOS Medicine, 5(2): e45.DOI: 10.1371/journal.pmed.0050045 / 抗うつ薬とプラセボのメタ分析。
プラセボが文脈と期待のなかで起きる脳の現象だとすれば、私たちが「ケア」と呼ぶ作業もまた、ただの治療技術ではなく、脳と身体の対話を整える行為なのかもしれません。次回からPART IV後半は、ケアと身体・余白の関係を、別の角度から辿っていきます。
