同じ怪我なのに、痛みの強さが日によって違うことがあります。気が張っていた仕事中は気にならなかった切り傷が、夜になって突然ずきずきと痛みはじめる。逆に、子どもの頃に転んでも、夢中で遊んでいたら痛みを忘れていた経験は誰にでもあるはずです。「痛み」は身体のどこかからの単純な信号ではなく、もっと複雑なしくみで作られている――それが、現代の痛み研究が示しはじめている姿です。
どこかが痛いとき、私たちは長らく、それを「身体のどこかで何かが起きていることを脳に伝える信号」だと考えてきました。フランスの哲学者デカルトが17世紀に描いた、足の傷から脳までを直線でつなぐ図はこの理解の象徴です。けれど20世紀後半からの痛み研究は、痛みの仕組みがそんな単純な伝達ではないことを示しはじめています。痛みは、身体からの信号と、脳が作り出す解釈の、対話の産物だったのです。
同じ刺激でも、注意がそれていれば痛みは弱くなり、不安が強ければ痛みは増す。プラセボ(偽薬)でも痛みは確実に和らぐ。慢性的な痛みは、痛む場所がもう治っていても続く――こうした、それまで「気のせい」と片付けられてきた現象は、すべて痛みが脳の作り出す経験であることの証拠でした。痛みは身体の問題でも、心の問題でもなく、その両方を含む脳の経験なのです。
この認識は、痛みの治療を大きく変えてきています。慢性的な痛みは、薬や手術だけで治す対象ではなく、脳の痛みネットワークの「編集の仕方」を変えることで和らぐ対象でもあります。痛みのメカニズムを患者自身が学ぶ「痛み教育(pain education)」と呼ばれる治療法は、痛みのしくみを理解するだけで脳の表現が書き換わり、慢性痛の強さが下がることを示してきました。情報そのものが治療になる、というのは不思議な感覚ですが、痛みが脳の編集である以上、編集者である自分が脳のしくみを知ることは、確かに痛みを変えていきます。
日々の暮らしのなかでできることも見えてきています。運動を続けること、注意を別のものに向けること、深い呼吸の練習、十分な睡眠、信頼できる関係を持つこと――これらはどれも、薬と同じくらい、脳の痛みネットワークを再編成する具体的な手段です。慢性的な痛みを抱える人ほど、「治す」よりも「付き合い方を編み直す」ほうが効くことが、研究の積み重ねから見えてきています。
痛みは敵ではなく、身体と心が私たちに渡している複雑なメッセージです。それを「沈黙させる」のではなく「読み解く」関係に置き直すこと――痛みの神経科学が私たちに渡してきている、いちばん大きな贈り物かもしれません。
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痛み研究の転機は1965年、英国の生理学者パトリック・ウォールとカナダの心理学者ロナルド・メルザックが医学誌に発表した論文にあります。彼らが提示した「ゲートコントロール理論」は、脊髄に痛みの「門」があり、それが他の感覚信号や脳からの指令によって開閉されることを示しました。1999年、メルザックはさらに踏み込んで「ニューロマトリックス理論」を提示し、痛みは身体の特定部位で生まれるのではなく、脳全体のネットワークが作り出す経験だと論じました。21世紀に入ると、機能的MRIによって痛みの「脳の中の住所」が特定されています。一次・二次体性感覚野、島皮質、前帯状皮質、視床、前頭前皮質――これらが連動した「痛みネットワーク」を形成し、その活動パターンが痛みの強さを決めることがわかってきました。豪オーストラリア・カトリック大学のローリマー・モーズリーらは、慢性痛患者の脳が「痛みのある身体部位」の表現を歪めていることを示し、患者自身が痛みのしくみを学ぶことで脳の表現が書き換わる「痛み教育(pain education)」という治療法を発展させました。日本では愛知医科大学の牛田享宏らが、慢性痛の中枢メカニズムの解明と治療法の開発を進めています。米ノースウェスタン大学のマーワン・バリキらは、慢性痛が脳の構造そのものを変えること、その変化はうつや不安と神経基盤を共有することを継続的に示してきました。
痛み教育(pain education)の介入により、慢性腰痛患者の痛み強度が平均で約30%低下することが複数のメタ分析で示されている(Watson et al. 2019, J Pain, 20(10): 1140-1154)。
慢性痛患者の脳画像では、前頭前皮質と島皮質の灰白質体積が約5〜11%減少している(Apkarian et al. 2004ほか)。慢性痛は脳の構造を変える。
世界の成人の約20%が慢性痛を抱えており(Goldberg & McGee 2011, BMC Public Health)、日本では2,300万人以上と推計(厚生労働科学研究班)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Melzack, R. & Wall, P. D. (1965). "Pain mechanisms: A new theory." Science, 150(3699): 971-979.DOI: 10.1126/science.150.3699.971 / ゲートコントロール理論の出発点。
- Melzack, R. (1999). "From the gate to the neuromatrix." Pain, Suppl 6: S121-S126.DOI: 10.1016/S0304-3959(99)00145-1 / ニューロマトリックス理論。
- Moseley, G. L. & Butler, D. S. (2017). Explain Pain Supercharged. Noigroup Publications.痛み教育の臨床応用の決定版。
- Apkarian, A. V. et al. (2013). "Predicting transition to chronic pain." Current Opinion in Neurology, 26(4): 360-367.DOI: 10.1097/WCO.0b013e32836336ad / 慢性痛と脳構造変化の総説。
- Tracey, I. & Bushnell, M. C. (2009). "How neuroimaging studies have challenged us..." Journal of Pain, 10(11): 1113-1120.脳画像研究と痛み概念の更新。
- 牛田享宏 編(2017)『慢性疼痛の科学』南山堂日本の慢性痛研究の総合的解説。
痛みが脳の編集する経験だとすれば、「旅」のような全身的な体験もまた、ただの場所の移動ではなく、もっと深い記憶と知覚の編集作業なのかもしれません。次回は、旅が記憶と空間認知に何をしているのかを、海馬と場所細胞の研究から辿ります。
