PART III 関係 ・ ペット #03
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猫を飼うと、私たちの何が変わるのか

― 猫科学が示す、独立した同居者との関係

What Changes in Us When We Live With Cats

犬と違い、猫は呼んでも来ないことが多く、撫でられたいときだけそばに来て、気が向くと去っていく。それでも私たちはこの不思議な同居者と、何千年もの時間を共にしてきました。猫科学が示すのは、独立した存在と暮らすことの独自の効用です。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 自然科学 / 猫科学・人動物関係学

犬は呼べば走ってくる。猫は呼んでも、たいてい来ない。撫でられたいときだけ膝に乗ってきて、気が向くと唐突に去っていく。一見、人間に従順でないこの存在を、私たちは何千年も家のなかに招いてきました。エジプト、ローマ、中世ヨーロッパ、日本――どの文明も、独立した同居者としての猫と暮らしてきたのです。猫を飼うことは、犬を飼うこととはまったく違うかたちの、深い関係の経験です。

猫の家畜化の歴史は、犬よりずっと新しく、約1万年前の中東(メソポタミア、レバント地方)で始まったとされます。米国立衛生研究所のカルロス・ドリスコルらが2007年の遺伝学的研究で示したように、現代の家猫の祖先はリビアヤマネコ(Felis silvestris lybica)で、農耕の始まりとともに穀物を食い荒らすネズミを追って人の集落に近づき、自発的に「自己家畜化」したと考えられています。犬が「人間に選ばれた」のに対して、猫は「自分で人間を選んだ」のです。

神経生物学的には、猫と暮らすことの効果は犬とは少し違ったかたちで現れます。米ミネソタ大学のアドナン・カディルらの研究では、猫を飼っている人は、飼っていない人と比べて心血管疾患による死亡リスクが約30%低いことが示されました。犬のように散歩を要請しないため運動効果は限定的ですが、猫の「ゴロゴロ音」(25-50Hz)が人のストレスを和らげ、骨密度の維持にも関与する可能性が示唆されています。

心理的には、猫の独立性が独自の関係を生みます。スイスのベルン大学のデニス・ターナーは、猫と人の関係を「対等な同居人」として研究してきました。猫は人を「養い手」ではなく「同居仲間」として認識し、自分が望むときに関わる。この距離感は、依存的でない、健全な関係のモデルを私たちに教えてくれるところがあります。「いつでもいてくれるけど、気を遣わせない」――こうした関係を、私たちは猫から学んでいるかもしれません。

日本の猫文化は世界的に独自です。古代の文献に登場し(『枕草子』『源氏物語』)、招き猫、化け猫、夏目漱石『吾輩は猫である』、現代の猫カフェ、猫島――猫は日本の文化のなかで、神秘的な隣人として位置づけられてきました。京都大学の菊水健史らも、猫の認知能力の研究を進めており、猫は犬と違うかたちで人間の声を識別し、自分の名前を理解していることが示されています(Saito, A. et al. 2019, Scientific Reports)。

猫を飼うことは、犬を飼うこととも、人と暮らすこととも違う、もう一つの関係の練習です。要請せず、距離を尊重し、相手のペースに合わせる――猫が私たちに教えてくれているのは、こうした関係の作法かもしれません。猫はペットでも家族でもなく、「対等な同居者」として、独自の場所を私たちの暮らしに持っています。

DEEPER 学術的な観点で深めると

猫の家畜化と人猫関係の研究は、長く犬の研究より遅れていましたが、ここ20年で進展しています。米国立衛生研究所のカルロス・ドリスコルらは2007年、現代家猫の起源がリビアヤマネコであることを遺伝学的に示しました。家畜化は約1万年前、中東で始まったとされます。スイスのベルン大学のデニス・ターナーとペーター・ベイトソンが編集した(第3版、2014年)が猫科学の標準教科書です。米テネシー大学のジョン・ブラッドショウは(2013年)で猫の認知と行動を一般向けに解説。日本では麻布大学の菊水健史、京都大学の齋藤慈子(現・上智大学)が猫の認知研究を進めています。齋藤らの2019年論文は、猫が自分の名前を認識する能力を実証し、世界の注目を集めました。猫の鳴き声「ニャー」が、人間の赤ちゃんの泣き声に似た周波数を持つことも、猫が人間との共生のために発達させた可能性として議論されています。

SIGNAL 01

猫を飼っている人は、飼っていない人より心血管疾患死亡リスクが約30%低い(Qureshi, A. I. et al. 2009, J Vasc Interv Neurol, 2(1): 132-135)。

SIGNAL 02

猫は自分の名前を認識し、他の単語と区別できる(Saito, A. et al. 2019, Scientific Reports, 9: 5394)。日本人研究者による発見。

SIGNAL 03

日本の飼育猫数は約880万頭で犬を上回る(一般社団法人ペットフード協会2023年調査)。第三次猫ブーム継続中。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Driscoll, C. A. et al. (2007). "The Near Eastern origin of cat domestication." Science, 317(5837): 519-523.猫の家畜化の遺伝学。
  • Bradshaw, J. (2013). Cat Sense. Basic Books.猫の認知行動学。
  • Turner, D. C. & Bateson, P. (eds.) (2014). The Domestic Cat (3rd ed.). Cambridge University Press.猫科学の標準教科書。
  • Saito, A. et al. (2019). "Domestic cats discriminate their names from other words." Scientific Reports, 9: 5394.猫の名前認識。
  • 齋藤慈子(2018)『ねこの学校』PARCO出版日本の猫認知研究。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

独立した同居者との関係を見直すと、私たちが家族の一部として共有している「朝の儀式」――誰かの声で目覚めること――もまた、関係を編む基本的な装置として見え直してきます。次回はPART III最終話、朝の儀式の家族社会学を辿ります。

NEXT EPISODE 第59話「『他人の声で目覚める』が、家族のかたちを編む」 公開を待つ →
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