子育ては「親が子どもを育てる」一方向の関係だと、私たちは長く思ってきました。親は教える側、子どもは育てられる側――この役割は固定されていて、流動的なものではない、と。けれど、子どもを持った経験のある人なら、たいてい知っています。子育ての過程で、自分自身が驚くほど変わっていくことを。
近年の発達心理学では、「親性発達(parental development)」という概念が提示されています。子育ての経験が、親自身の人格・価値観・対人能力・問題解決能力を発達させるという視点です。米ハーバード大学の発達心理学者キャサリン・スノウらは、親が子どもとの相互作用を通じて、共感能力・忍耐力・優先順位の付け方・長期的視点を獲得していくプロセスを継続的に追ってきました。
神経生物学的にも、親になることは脳の構造を実際に変えます。米イェール大学のジェームス・スワンらは2010年代以降、出産後の母親の脳の灰白質体積が変化し、特に子どもへの注意・共感に関わる領域が再編成されることを示してきました。父親も、出産に立ち会い育児に関わると、似た脳の変化が起きることが報告されています。子育ては、生物学的に親を作り直す経験でもあるのです。
心理的には、子どもの存在が親に「自分だけの世界では完結しない時間」を強制します。仕事や趣味で組み立ててきた自己が、子どもとの関係の中で再構築される。この経験を「制約」と感じるか「拡大」と感じるかは、その人の関わり方しだいです。第46話で取り上げた「自己拡張理論」の観点で言えば、子どもは自己を最も拡大させる関係のひとつでもあります。
逆に、子育ての経験が親に与える影響にはマイナス面もあります。慢性的な睡眠不足、自分の時間の喪失、産後うつのリスク、関係の緊張――これらは無視できません。重要なのは、こうした困難をひとりで抱え込むのではなく、パートナー、家族、地域、専門家との関係のなかで分かち合っていくことです。「親が一人で完璧に育てる」モデルは、神経生物学的にも社会学的にも持続不可能です。
子どもがいない人にも、この知見は意味を持ちます。子育てを一方向の犠牲ではなく、双方向の発達として捉え直すと、家族のあり方や社会の支援のあり方も変わってきます。「子育ての時間は、親としての時間であると同時に、自分自身が深く育つ時間でもある」――この視点は、育児への向き合い方を、少し豊かにしてくれます。
DEEPER 学術的な観点で深めると ▾
親性発達(parental development / maternal-paternal development)の研究は、米シカゴ大学のバーニス・ノイガーテン、米コロンビア大学のキャロライン・ガラン、米ハーバード大学のキャサリン・スノウらによって体系化されてきました。神経生物学的研究では、米イェール大学のジェームス・スワン、ピラ・カマーチョらが出産前後の母親の脳構造変化を機能的MRIで継続的に追跡。スペイン・バルセロナ大学のエルセリーナ・フォゲロらは、出産後の母親の脳の灰白質体積が長期的に変化することを示しました。父親研究では、米ノースウェスタン大学のリー・ゲットラーがテストステロン低下と父親脳活動の変化を記録。日本では発達心理学者の柏木惠子(東京女子大学名誉教授)が「親としての発達」を継続的に研究、また小児神経学者の榊原洋一(お茶の水女子大学名誉教授)が子育てと親の発達の関係を論じてきました。
出産後の母親の脳の灰白質体積が一部領域で減少(神経回路の最適化と解釈)、変化は2年以上維持(Hoekzema, E. et al. 2017, Nature Neuroscience, 20(2): 287-296)。
育児に深く関わる父親はテストステロンが約30%低下し、保育行動を支える神経状態に変化(Gettler, L. T. et al. 2011, PNAS, 108(39): 16194-16199)。
親性発達指標は子どもの年齢とともに段階的に上昇、特に思春期親子で顕著(柏木惠子・若松素子1994、家族社会学)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Hoekzema, E. et al. (2017). "Pregnancy leads to long-lasting changes in human brain structure." Nature Neuroscience, 20(2): 287-296.母親脳の構造変化。
- Gettler, L. T. et al. (2011). "Longitudinal evidence that fatherhood decreases testosterone in human males." PNAS, 108(39): 16194-16199.父親性とホルモン。
- Swain, J. E. et al. (2014). "Approaching the biology of human parental attachment." Brain Research, 1580: 78-101.親性の神経生物学。
- 柏木惠子・若松素子(1994)「『親となる』ことによる人格発達」『発達心理学研究』5(1): 72-83.日本の親性発達研究。
- Belsky, J. (2005). The Origins of the Social Mind. Guilford Press.社会的脳と親子関係。
子育てが親自身を深く育てるなら、日常の小さな贈与――「ありがとう」と言うこと――もまた、自分自身を変えていく行為かもしれません。次回は、感謝表現の自己効果を、ポジティブ心理学から辿ります。
