PART II 暮らしの基盤 ・ 教育 #03
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大人の脳も、いつまでも変わり続けている

― 神経可塑性研究が示す、生涯学習の科学的根拠

The Adult Brain Keeps Changing All Through Life

大人になったら脳の構造はもう変わらない、新しいことを学ぶのは若いうちだけ――こうした思い込みを、ここ30年の神経科学は次々に覆してきました。脳は、生涯にわたって変わり続けます。それを支えているのが「神経可塑性」と呼ばれる現象です。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 自然科学 / 神経可塑性

「大人になったら脳の構造はもう変わらない」「新しいことを学ぶのは若いうちだけ」「年を取ったら新しいスキルを身につけるのは難しい」――こうした思い込みを、私たちは長く当然のことのように受け入れてきました。けれど、ここ30年の神経科学は、この常識を次々に覆してきました。脳は、生涯にわたって変わり続けます。

「神経可塑性(neuroplasticity)」と呼ばれるこの現象は、脳のニューロンが新しい接続を作り、不要な接続を削り、必要に応じて構造そのものを変えていく能力を指します。ロンドンのタクシー運転手の海馬の灰白質体積が、街の地図を覚える経験年数に比例して増えること(第63話で取り上げた研究)、楽器の練習を続ける音楽家の運動野が肥大すること、第二言語を学ぶ大人の言語野が活性化することなど、構造的な変化が大人の脳でも起きていることが、機能的MRIの普及で次々に確認されてきました。

カナダ系米国の精神科医ノーマン・ドイジは2007年の著書『脳は奇跡を起こす』のなかで、神経可塑性の研究を一般に届けました。脳卒中で麻痺した患者がリハビリで機能を取り戻すこと、視覚障害者の聴覚と触覚の処理領域が拡張すること、瞑想を続ける人の前頭前皮質の灰白質が増えること――これらすべてが、大人の脳が「学び直し」を続けている証拠です。

近年の研究は、神経可塑性を支える条件も明らかにしてきました。第一は身体運動――特に有酸素運動が、海馬の神経新生を促進すること。第二は質の高い睡眠(第24話・第26話と関連)――新しい接続が定着するための整理時間。第三は、「望ましい困難」を伴う学習(第33話と関連)――簡単すぎず、難しすぎない、適度な挑戦が脳を変える。第四は社会的関与――他者と関わる経験が脳の複数の領域を同時に活性化させる。これら4つが揃ったとき、脳は最も活発に変化します。

一方で、神経可塑性は「使わないと衰える」性質も持っています。慢性的なストレス、孤立、画一的な情報環境(同じSNSばかり見るなど)、運動不足は、脳の柔軟性を低下させます。「年を取ると頭が固くなる」という現象は、年齢の必然ではなく、生活パターンの結果である側面が大きいのです。

これは、暮らし全体の設計に深い意味を持ちます。「学び終わりの年齢」は存在しない。70歳でも80歳でも、新しいスキル・言語・関係を学ぶことは、脳を物理的に若く保つ最も効果的な方法です。日々の暮らしのなかに、適度な身体運動、質の高い睡眠、適度な挑戦、人との関わりを置きつづけること――これは贅沢ではなく、自分の脳との誠実な付き合い方なのです。

DEEPER 学術的な観点で深めると

神経可塑性の研究は、20世紀後半から急速に進展しました。米コロンビア大学のエリック・カンデル(2000年ノーベル医学・生理学賞)は、海洋無脊椎動物アメフラシの神経系で学習による細胞レベルの変化を示し、神経可塑性の分子基盤を明らかにしました。米カリフォルニア大学サンフランシスコ校のマイケル・メルツェニチは「神経可塑性の父」と呼ばれ、リハビリテーションへの応用を主導してきました。米ピッツバーグ大学のカーク・エリクソンらは2011年、有酸素運動を1年続けた高齢者の海馬体積が約2%増加することを示しました(PNAS)。日本では理化学研究所の宮下保司、自然科学研究機構生理学研究所が神経可塑性の研究を牽引。京都大学の入來篤史(理化学研究所)は道具使用と脳の可塑性の関係を、東京大学の池谷裕二は記憶と可塑性の関係を継続的に研究しています。神経可塑性は、脳科学の枠を超えて、教育・リハビリテーション・公衆衛生の中心的概念として位置づけられつつあります。

SIGNAL 01

有酸素運動を1年続けた55-80歳の高齢者で海馬体積が約2%増加(Erickson, K. I. et al. 2011, PNAS, 108(7): 3017-3022)。

SIGNAL 02

タクシー運転手の海馬後部の灰白質体積が経験年数に比例して増加(Maguire, E. A. et al. 2000, PNAS, 97(8): 4398-4403)。

SIGNAL 03

瞑想実践者の前頭前皮質・島皮質の灰白質が非実践者より厚い(Lazar, S. W. et al. 2005, NeuroReport, 16(17): 1893-1897)。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Doidge, N. (2007). The Brain That Changes Itself. Viking.神経可塑性の総合的解説。
  • Erickson, K. I. et al. (2011). "Exercise training increases size of hippocampus and improves memory." PNAS, 108(7): 3017-3022.運動と海馬体積。
  • Kandel, E. R. (2006). In Search of Memory. W. W. Norton.記憶と神経可塑性のノーベル賞研究者の自伝。
  • Merzenich, M. M. (2013). Soft-Wired. Parnassus.神経可塑性の応用。
  • 入來篤史(2004)『道具を使うサル』医学書院日本の脳可塑性研究。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

脳がいつまでも変わり続けるなら、私たちの「朝型」「夜型」も、変えようと思えば変えられるのでしょうか。次回は、クロノタイプが遺伝子レベルで決まっているかどうかを、時計遺伝子研究の系譜から辿ります。

NEXT EPISODE 第35話「朝型と夜型は、遺伝子に刻まれていた」 公開を待つ →
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