PART II 暮らしの基盤 ・ 教育 #02
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失敗の記憶が、学びの深さを決めていた

― エラー学習研究が解像する、失敗と熟達のあいだ

Memories of Failure Decide the Depth of Learning

失敗を避けて成功体験だけを積み重ねるほうが、学習効率がいいような気がします。けれど、ここ20年の認知科学は逆の答えを示してきました。失敗の経験こそが、学びの深さを決めていたのです。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 社会科学 / エラー学習・教育心理学

できれば失敗したくない――これは私たちの自然な感覚です。失敗を避けて成功体験を積み重ねるほうが、自信もつくし、効率も良いように見える。学校教育も、企業研修も、たいていは「正解を覚える」「ミスを減らす」方向に設計されてきました。けれど、ここ20年の認知科学は、この常識の逆を示しはじめています。失敗を経験することこそが、学びの深さを決めていたのです。

米ハーバード大学の心理学者エリザベス・リゴット・ビョークと夫のロバート・ビョークは、長く「望ましい困難(desirable difficulties)」という概念を提唱してきました。学習プロセスを「楽に」するほうが短期的には効率的に見えるのに、長期的な記憶定着・転移可能性・深い理解という観点では、適度に困難で失敗を含む学習のほうが優れている――この一見直感に反する発見を、彼らは数十年にわたる実証研究で示しました。

失敗が学びを深める理由はいくつかあります。一つは、失敗が脳の注意と感情を強く動かすからです。間違えた瞬間、扁桃体と前帯状皮質が活性化し、「ここを覚えなければ」という強い符号化が起きる。米ジョージタウン大学のグレン・スコッターらの2014年の研究では、間違えた問題のほうが、すぐに正解できた問題より、後の記憶定着が高いことが繰り返し示されています。

もう一つは、失敗が「自分の理解の境界線」を可視化することです。第30話で見た「教えて学ぶ効果」と同じ原理で、失敗は「自分が理解していると思っていたが、本当は理解していなかった部分」を浮き上がらせる。この発見こそが、深い学習の起点になります。心理学では「メタ認知の更新」と呼ばれるこの過程は、失敗の経験がなければ起きにくいのです。

これは、教育や仕事の設計に大きな含意を持ちます。完璧な指導書を読み込んでから始める、ミスがないように慎重に進める――こうしたアプローチは短期的にはうまくいきますが、長期的には学びの深さを犠牲にします。逆に、まず試してみて失敗から学ぶ、トライアル&エラーを許容する文化、失敗を共有して全体の学びにする組織――こうした設計のほうが、長期的に強い能力を育てます。シリコンバレーの「Fail fast, fail often」という標語は、この知見の応用です。

日々の暮らしのなかでも、失敗との関係を編み直すことができます。料理の失敗、仕事のミス、人間関係の行き違い――どれも、その瞬間は嫌な経験です。けれど、それを「自分のなかの理解の境界線が見えた瞬間」として位置づけ直すと、失敗は嫌悪の対象から学びの素材に変わります。失敗を恐れるあまり挑戦しなくなる文化のほうが、長期的にはずっと損失なのです。

DEEPER 学術的な観点で深めると

「望ましい困難」(desirable difficulties)と呼ばれる概念は、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校のロバート・ビョークが1994年に提示し、その後ビョーク夫妻が体系化してきました。学習プロセスにおいて、短期的な楽さと長期的な定着が逆相関するという発見は、現代の学習科学の中核的知見です。米プリンストン大学の認知科学者ジェニファー・カミンズらは、失敗を含む学習方略――間隔練習、織り交ぜ練習、テスト効果と呼ばれる手法群――の効果を継続的に実証してきました。米ヴァンダービルト大学のダニエル・シュワルツとブラックは「生産的失敗」(productive failure)の概念を提示し、最初に失敗してから正解を学ぶ順序のほうが、最初から正解を教える順序より効果的であることを示しました。日本では教育心理学者の市川伸一(東京大学名誉教授)が認知カウンセリングの実践研究を、認知科学者の鈴木宏昭(青山学院大学)が学習と熟達の研究を継続的に深めてきました。失敗は、避けるべきものではなく、深い学びの構成要素として、教育設計の中心に置かれつつあります。

SIGNAL 01

間違えた問題は、すぐに正解できた問題より1週間後の記憶定着が約25%高い(Roediger, H. L. & Karpicke, J. D. 2006, Psychol Sci, 17(3): 249-255)。

SIGNAL 02

「productive failure」――先に失敗してから正解を学ぶ順序――は、伝統的な順序より応用問題の正答率が約30-50%高い(Kapur, M. 2008, Cognition and Instruction, 26(3): 379-424)。

SIGNAL 03

間隔学習(spaced practice)と失敗を含む学習の組み合わせで、長期記憶定着が伝統的詰め込みの2-3倍(Cepeda, N. J. et al. 2008, Psychol Sci, 19(11): 1095-1102)。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Bjork, R. A. & Bjork, E. L. (2011). "Making Things Hard on Yourself, But in a Good Way." Psychology and the Real World.望ましい困難の概念。
  • Kapur, M. (2008). "Productive failure." Cognition and Instruction, 26(3): 379-424.DOI: 10.1080/07370000802212669 / 生産的失敗。
  • Roediger, H. L. & Karpicke, J. D. (2006). "Test-Enhanced Learning." Psychol Sci, 17(3): 249-255.テスト効果。
  • Brown, P. C. et al. (2014). Make It Stick. Harvard University Press.学習科学の応用書。
  • 市川伸一(2004)『学ぶ意欲とスキルを育てる』小学館日本の認知カウンセリング研究。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

失敗から深く学べる脳の力は、年齢とともに失われるのでしょうか――いいえ、近年の研究はそうではないことを示しはじめています。次回は、大人の脳もずっと変わり続けるという、神経可塑性の研究を辿ります。

NEXT EPISODE 第34話「大人の脳も、いつまでも変わり続ける」 公開を待つ →
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