長く続く古民家に足を踏み入れた瞬間、なぜか深く呼吸ができる感覚があります。木のぬくもり、土壁の柔らかさ、漆喰の白、畳の香り、障子越しのやわらかな光――新建材で建てた家では再現しきれない何かが、私たちの身体を直接静めてくる。古民家の魅力を「ノスタルジー」「気のせい」だと考えるのは簡単ですが、それだけでは説明しきれない、確かな身体反応がそこにあるのです。
木造建築環境論(wooden architectural environment)は、20世紀後半から発展してきた研究分野です。木材は、コンクリートや鉄と違い、生きた素材として湿度を吸放出し、温度変動を緩衝し、微量の揮発性化合物(フィトンチッド)を放出しつづけています。築100年の古民家でも、この素材の生命的な働きはゆっくり続いており、その空間に入った人の身体に静かに作用するのです。
日本では木造建築の研究が世界的に進んでいます。国立研究開発法人森林総合研究所、京都大学の小幡朋和、東京大学の青木謙治らが、木の住宅と人間の生理・心理の関係を実証研究してきました。木の部屋に滞在した被験者は、コンクリートの部屋に滞在した被験者より、ストレスホルモン(コルチゾール)の値が低く、副交感神経活動が活発になることが繰り返し示されています。木は装飾ではなく、空間に住む人の自律神経に直接働きかける素材だったのです。
もう一つ重要なのは、古民家に蓄積されている「時間」です。100年、200年と人が住み、手入れを続けてきた家には、無数の手の跡、足の跡、声の記憶が刻まれています。建築環境心理学者のクリスチャン・ノルベルク=シュルツは『ゲニウス・ロキ』(1980年)で、場所が固有の精神性を持つと論じました。古民家には、世代を超えて積み重なった「ゲニウス・ロキ(場所の精霊)」のような何かが存在し、入った瞬間にそれを身体が感じ取っているのかもしれません。
現代の住まいの設計のなかにも、この知見は具体的に応用できます。すべてを古民家にする必要はないけれど、無垢の木の床、漆喰や珪藻土の壁、和紙のスクリーン、畳の一角――こうした「生きた素材」を一部に取り入れるだけで、空間の質感は大きく変わります。建築家・隈研吾が世界中で展開している木造建築の数々は、現代の中で「生きた素材」を取り戻す試みでもあります。
今日の住まいのなかで、自分の身体がどんな素材に触れているか、もう一度見直してみる。床、壁、家具、寝具――それぞれが、自分の身体と毎日対話している相手です。古民家がいまも人を癒すのは、人と素材の対話が長く続いてきた場所だから。同じ対話を、現代の住まいのなかでも、少しずつ取り戻していくことができるのです。これでPART I「衣食住」18話が完結します。次回からはPART II「暮らしの基盤」に入ります。
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木造建築環境論は、日本では20世紀後半から本格化しました。国立研究開発法人森林総合研究所が長期的に木材と健康の関係を研究してきており、2010年代以降、木の内装と被験者の生理応答(コルチゾール、心拍変動、脳波)の関係を実証する論文が相次いでいます。京都大学の小幡朋和は木材の調湿性能と室内環境を、東京大学の青木謙治は木造建築の構造的優位性を、宮城大学の佐々木貴信は地域材を使った住宅の総合評価を研究してきました。建築環境心理学では、ノルウェーの建築学者クリスチャン・ノルベルク=シュルツが(1980年)で場所の精神性を体系化し、現代の建築理論に大きな影響を与えました。米建築家フランク・ロイド・ライトの「有機建築」、日本の建築家・吉村順三、隈研吾の「弱い建築」――これらはすべて、素材と空間と身体の対話を中心に据えた建築哲学の系譜です。古民家研究では、文化財建造物保存技術協会、京都府立大学の宗田好史らが日本各地の古民家の文化的価値と現代的活用を継続的に追跡しています。
木の部屋に滞在した被験者は、コンクリート部屋に滞在した被験者よりコルチゾール(ストレスホルモン)が約20%低い(Ikei, H. et al. 2017, Int J Environ Res Public Health, 14(7): 800)。
日本の古民家(築50年以上の伝統工法住宅)は約100万棟と推定(国土交通省2019年推計)、毎年約2-3万棟が解体されている。
木造建築はRC造に比べて室内のVOC(揮発性有機化合物)濃度が低く、調湿効果も高い(森林総研2018年技術資料)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Norberg-Schulz, C. (1980). Genius Loci. Rizzoli.場所の精神性の建築論。
- Ikei, H. et al. (2017). "Physiological Effects of Touching Wood." Int J Environ Res Public Health, 14(7): 800.DOI: 10.3390/ijerph14070800 / 木材接触の生理応答。
- 隈研吾(2004)『負ける建築』岩波書店弱い建築の哲学。
- 宮崎良文(2018)『Shinrin-yoku』創元社森林浴と健康(第15話と関連)。
- 森林総合研究所(2020)『木材と健康の科学』国研木材の生理影響の総合的研究。
PART I「衣食住」が完結しました。次回からはPART II「暮らしの基盤」に入り、睡眠、家事、はたらく、教育という、一日を成り立たせる4つの活動を、暮らしの観点から読み直していきます。すでに公開されている第24話(睡眠)、第25話(家事)、第32話(はたらく)に加えて、新しい話を順次お届けします。
