PART I 衣 食 住 ・ 食事レストラン #04
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「ほしい」と「いい」は、脳のなかで別の出来事だった

― 報酬系研究が解像する、欲求と満足のあいだのずれ

Wanting and Liking Are Different Brain Events

甘いものをやめようと思っているのに、夜になるとどうしても食べたくなる。食べてみると思ったほどの満足はない――それでも次の日も同じパターンが繰り返される。「ほしい」と「いい」は、脳のなかで別々のしくみで動いていることが、ここ30年の報酬系研究で見えてきました。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 自然科学 / 報酬系神経科学・行動科学

甘いものをやめようと思っているのに、夜になるとどうしても食べたくなる。手を伸ばして口に入れて、食べ終わった瞬間、思ったほどの満足はない。それなのに、翌日の夜にはまた同じことを繰り返してしまう。「ほしい」と思って食べたのに、食べたら「やっぱり、こんなものか」と思う――この奇妙なずれを、私たちはたいてい「自分の意志の弱さ」として片付けています。

けれど、ここ30年の脳科学は、「ほしい(wanting)」と「いい・満足する(liking)」が、脳のなかで別々のしくみで動いていることを明らかにしてきました。意志の弱さの問題ではなく、私たちの脳の構造そのものが、欲求と満足を別々の回路で処理しているのです。

報酬系研究の中心人物、米ミシガン大学の神経科学者ケント・ベリッジは1990年代以降、ドーパミンを介した「ほしい」と、オピオイドを介した「いい」を、薬理学的・行動学的に分離する仕事を続けてきました。彼の研究によれば、ドーパミンは「これを手に入れろ」という追求のシグナルを発し、オピオイドは「いま味わっているこれは心地よい」という満足のシグナルを発します。ふつうは一緒に動くこの二つのシグナルが、慢性的なストレスや過剰な刺激のなかで、ずれていくことがあるのです。

加工食品やSNSの仕組みは、しばしば「ほしい」を強化する一方で、「いい」を弱める方向に作られています。糖と脂質と塩を組み合わせた食品は、ドーパミン系を強く刺激しますが、満足感は長続きしません。SNSの通知や「いいね」は次の通知を求める強い欲求を生みますが、見終わった後の満足感は薄い。「ほしい」と「いい」のずれが大きくなった結果、欲求は止まらないのに満足は得られない、という慢性的な不調和が起きていきます。

このずれを修復するための実用的な作法は、いくつかあります。一つは「ゆっくり食べる」「ゆっくり味わう」――食事のあいだ、口のなかの感覚に注意を向ける時間を作ることで、満足のシグナルが追いついてきます。もう一つは、強い刺激の食品やコンテンツとの距離を取ること。一週間の「断ち時期」を作るだけで、もとの欲求と満足のバランスが戻りはじめます。三つ目は、本当に好きなものを丁寧に味わう機会を増やすことです。

「ほしい」が暴走しているとき、私たちは自分を責めがちです。けれど問題は意志の強さではなく、脳の二つの系の同期のずれです。それを知るだけで、関わり方の地平が、少し変わってくるはずです。

DEEPER 学術的な観点で深めると

報酬系研究の出発点の一つは、米マギル大学のジェームズ・オールズとピーター・ミルナーが1954年に発表した、ラットの脳内自己刺激の実験です。彼らの研究は脳のなかに「報酬の中枢」があることを示し、その後のドーパミン研究の基盤になりました。米ミシガン大学のケント・ベリッジとテリー・ロビンソンは1990年代以降、報酬を「ほしい(incentive salience)」と「いい(hedonic impact)」に分離し、それぞれの神経基盤(ドーパミン vs オピオイド・カンナビノイド)を実証する仕事を継続的に発表してきました。米国立薬物乱用研究所のノラ・ヴォルコフは、依存症における「ほしい」の暴走と「いい」の鈍化を脳画像で解像。米プリンストン大学のバート・ホーベルは食物への耽溺の動物モデルを示しています。日本では京都大学の苧阪直行が報酬と意思決定の研究を、東京大学の池谷裕二がドーパミン系の機能を継続的に追跡しています。「ほしい」と「いい」のずれは、肥満・依存・現代型のメンタルヘルス問題の中核的なメカニズムとして位置づけ直されつつあります。

SIGNAL 01

ドーパミン報酬予測誤差の発見(Schultz, W. et al. 1997, Science, 275(5306): 1593-1599)――「いい」ではなく「予期との差」を伝えるシグナル。

SIGNAL 02

加工食品摂取と食物渇望(craving)強度の正相関がfMRI研究で確認(Hall, K. D. et al. 2019, Cell Metab, 30(1): 67-77)。超加工食品は食欲駆動を強める。

SIGNAL 03

日本の食物中毒様症状の有病率は約15%(Yale Food Addiction Scaleの日本語版適用、Imperatori et al. 2016ほか)。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Berridge, K. C. & Robinson, T. E. (1998). "What is the role of dopamine in reward..." Brain Res Rev, 28(3): 309-369.「ほしい/いい」分離の決定論文。
  • Schultz, W. (1998). "Predictive reward signal of dopamine neurons." J Neurophysiol, 80(1): 1-27.ドーパミン報酬予測誤差。
  • Volkow, N. D. et al. (2017). "The dopamine motive system." Nat Rev Neurosci, 18(12): 741-752.依存症と報酬系。
  • Hall, K. D. et al. (2019). "Ultra-Processed Diets Cause Excess Caloric Intake..." Cell Metabolism, 30(1): 67-77.DOI: 10.1016/j.cmet.2019.05.008 / 超加工食品の臨床研究。
  • Berridge, K. C. (2009). "‘Liking’ and ‘wanting’ food rewards." Physiology & Behavior, 97(5): 537-550.食における二系統。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

欲求と満足のずれが食卓で起きるのなら、住まいの設計のなかでも似たずれが起きているかもしれません。次回からは住宅のシーンに移り、まず「制約と創造性」のあいだの不思議な関係を辿ります。

NEXT EPISODE 第12話「小さな部屋ほど、想像力が育つ説」 公開を待つ →
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