PROLOGUE — 序 章 第2話
02./ 100

情報は増えたのに、賢くなった気がしないのはなぜか

― 情報過多と認知負荷の研究が解像する、知の手応えの正体

Why More Information Has Not Made Us Wiser

朝の通勤、昼休み、寝る前――1日に何度もスマートフォンを開き、何百もの見出しに目を走らせる。それでも夜になって振り返ると、何を読んだか思い出せない。情報は確かに増えているのに、知の手応えは年々薄くなっていく――この違和感の正体を、認知科学と知識社会学の系譜から辿ります。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 社会科学 / 知識社会学・認知心理学

朝起きて最初に開くのはスマートフォンで、通勤電車のなかでニュースアプリをスクロールし、SNSのタイムラインを流し、昼休みにまた同じ動作を繰り返す。1日に何百もの見出しに目を走らせ、何十もの記事のリードを読んでいる。それなのに夜になって振り返ると、今日何を読んだのか、ほとんど思い出せない。情報は確かに大量に流れ込んでいるのに、自分のなかに何も残っていない感覚を、私たちは毎日のように経験しています。

この感覚を最初に言語化したのは、米国の未来学者ジョン・ネイスビッツでした。著書(『メガトレンド』、1982年)のなかで彼が残した「私たちは情報に溺れ、知識に飢えている」という一文は、いまも引用されつづけています。あれから40年、情報の量はネイスビッツの想像をはるかに超え、世界のデータ量は2025年に181ゼタバイトに達しています。にもかかわらず、知識に飢えているという感覚は和らぐどころか、深まっているように見えます。

情報が量として増えても、私たちの脳の処理能力は古代から大きくは変わっていません。同時に保持できる情報の数(ワーキングメモリ)は、古典的研究の7±2項目から、現代の研究では4項目程度とされる範囲に収まります。注意は有限な資源で、複数の情報を深く処理することはできない。流れてくる情報量と、私たちの脳の処理容量のあいだには、もともと大きな非対称があったのです。

では「知の手応え」とは何でしょうか。それは情報の量ではなく、情報と情報のあいだに自分なりの繋がりを作れたとき、そして自分の暮らしの問いと結びついたときに生まれる感覚です。同じ研究記事でも、自分が前から気にしていた問いの答えとして読むときと、何となく流すときでは、残るものが決定的に違います。手応えは情報そのものではなく、情報と自分の問いのあいだに架かる橋のなかに宿っています。

本連載が「暮らしのシーン27」を入口にしているのは、この橋を架けやすくするためです。「食事と腸内細菌」「住宅と環境心理学」「睡眠と記憶整理」――暮らしの場面を起点にすることで、情報は単独の知識ではなく、自分の問いに接続された「知」として届きはじめます。読み終えたあと、何かが手元に残る感覚――その感覚を取り戻すために、私たちは情報を減らすのではなく、問いの側を整え直す必要があるのです。

情報は今後も増えつづけます。けれど、賢くなるかどうかを決めているのは情報の量ではなく、その情報を引きつける問いを自分のなかに持っているかどうかです。次回からの100話は、その問いの結び目として読んでもらえたらと思います。

DEEPER 学術的な観点で深めると

情報過多(information overload)の研究は、米国の未来学者ジョン・ネイスビッツの著書『メガトレンド』(1982年)から本格的に立ち上がりました。続いて1988年、オーストラリアの教育心理学者ジョン・スウェラーが「認知負荷理論(cognitive load theory)」を提示し、ワーキングメモリの容量制約が学習効率の根本要因であることを示しました。米ハーバード大学のトーマス・ダベンポートとジョン・ベックは2001年の著書で、情報が過剰な経済では注意こそが希少資源だと整理。米作家ニコラス・カーは2010年の著書で、デジタル媒体の浅い読みが深い思考能力を侵食していくことを警告しました。日本では脳科学者の池谷裕二(東京大学)が記憶と注意の制約について、認知心理学者の鈴木宏昭(青山学院大学)が学習と熟達の研究を継続的に進めています。情報量と知の手応えのあいだの非対称は、認知の構造的制約と、問いの設計の不在の二重の要因から生まれています。

SIGNAL 01

世界のデジタルデータ総量は2025年に181ゼタバイト(181兆ギガバイト)に達する見込み(IDC Global DataSphere Forecast 2024)。10年で約10倍の増加。

SIGNAL 02

平均的なニュース記事の読了率は約26%にとどまる(Chartbeat 2018年解析、約75万記事のスクロールデータ)。

SIGNAL 03

オフィスワーカーの注意は平均47秒に1回切り替わっている(Mark, G. et al. 2018, UC Irvine)。深い思考の連続時間が崩れている。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Naisbitt, J. (1982). Megatrends. Warner Books.「情報に溺れ、知識に飢えている」の出典。
  • Sweller, J. (1988). "Cognitive Load During Problem Solving." Cognitive Science, 12(2): 257-285.DOI: 10.1207/s15516709cog1202_4 / 認知負荷理論の基礎論文。
  • Davenport, T. H. & Beck, J. C. (2001). The Attention Economy. Harvard Business School Press.注意経済の概念を経営学に導入。
  • Carr, N. (2010). The Shallows. W. W. Norton.デジタル媒体と深い思考の関係。
  • IDC (2024). Global DataSphere Forecast 2024.世界のデータ生成量の年次予測。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

情報の量に対して知の手応えを生むには、自分の暮らしのスケールに合った「粒度」で学問を取り出す必要があるかもしれません。次回は、4,000を超える研究領域を「1万分の1」の解像度で扱う本連載の方法論を考えます。

NEXT EPISODE 第3話「1万分の1の解像度で、学問は暮らしと出会う」 公開を待つ →
メルマガで次話を受け取る この話に感想を送る 全100話の地図へ
連載更新・実践事例・関連トピックをお届けします
ようこそ。確認メールをお送りしました。
これから一緒に「暮らしのかたち」を読み解いていきましょう。