PART V 開きのかたち 第13章 複製・伝達 第82話
82./ 100

オラリティとリテラシー ― オングの系譜

第V部「開きのかたち」第13章「複製・伝達」の第5話です。前話までは活版印刷、複製技術時代、オープンソース、クリエイティブ・コモンズと、文字と機械を介した複製を辿ってきました。本話では視点を一段深く下ろし、そもそも文字以前の世界はどう機能していたのか、そして文字の発明が人間の意識そのものに何をもたらしたのかという問いを扱います。導き手は、

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約—分 PDF版で読む

第V部「開きのかたち」第13章「複製・伝達」の第5話です。前話までは活版印刷、複製技術時代、オープンソース、クリエイティブ・コモンズと、文字と機械を介した複製を辿ってきました。本話では視点を一段深く下ろし、そもそも文字以前の世界はどう機能していたのか、そして文字の発明が人間の意識そのものに何をもたらしたのかという問いを扱います。導き手は、米国の文学研究者でイエズス会司祭のウォルター・オング(Walter J. Ong, 1912-2003)です。

オングは長くセントルイス大学で教鞭を取り、1950年代から半世紀にわたって声と文字の関係を研究しました。その集大成が、1982年にロンドンのMethuenから刊行された『Orality and Literacy: The Technologizing of the Word』(2002年にRoutledgeから新版、邦訳『声の文化と文字の文化』藤原書店 1991、桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳)です。本書の中心命題はひとつ――書くことは技術である、というものです。私たちは話すことを自然の能力と感じ、書くことをその延長と思いがちですが、オングはその順序を逆転させます。書くことは石器・車輪・印刷と同じ人工物であり、それを使い始めた瞬間から人間の思考様式そのものが組み替わっていく。これを彼は「言葉の技術化(the technologizing of the word)」と呼びました。

オングはまず、文字を全く知らない社会の言葉のあり方を「一次的口承文化(primary orality)」と呼んで類型化します。彼が示した口承文化の特徴は、概略次の九つです。付加的(andで連ねる)、累積的(決まり文句や形容句を積み重ねる)、冗長(記憶のため繰り返す)、保守的(新説より共有財の維持を優先)、生活世界に密着(抽象より具体)。さらに、闘争的(賞賛と罵倒の対比で語る)、共感的・参与的(語り手と聞き手の距離が近い)、ホメオスタシス的(過去を現在に合わせて語り直す)、状況依存的(文脈なしには意味が立ち上がらない)。書く人間にとっての常識――定義の独立性、抽象、矛盾の排除、線形の論理――は、読み書きの普及とともに事後的に作られた思考の癖だ、というのがオングの読解です。

この主張は単独の思いつきではなく、20世紀半ば以来の研究の系譜の到達点でした。アメリカの古典学者ミルマン・パリー(Milman Parry, 1902-1935)は1930年代、当時まだ口承叙事詩が生きていたユーゴスラヴィアで歌い手たちを録音し、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』が口承定型句の組み合わせで生成されていたことを実証しました。早世したパリーの仕事を継いだ弟子アルバート・ロード(Albert B. Lord, 1912-1991)は、1960年に『The Singer of Tales』(Harvard University Press、邦訳『物語の歌い手』みすず書房 1978、佐藤輝夫訳)を刊行します。さらに古典学者エリック・ハヴロック(Eric A. Havelock, 1903-1988)は1963年の『Preface to Plato』(Harvard UP、邦訳『プラトン序説』新書館 1997、村岡晋一訳)で、プラトンの詩人追放はアルファベット文化が口承文化の旧体制を退けた事件だと論じ、人類学者ジャック・グッディ(Jack Goody, 1919-2015)は1977年の『The Domestication of the Savage Mind』(Cambridge UP、邦訳『未開と文明』岩波書店 1986、吉田禎吾訳)で、書くことが分類表・帳簿・系譜を可能にし、社会の構造そのものを変えたと示します。

そしてオングは、現代の電子メディアが新たな口承性を作っていると指摘し、これを「二次的口承文化(secondary orality)」と呼びました。ラジオ、テレビ、電話、後にポッドキャスト、ライブ配信、TikTok、生成AIの音声――これらは文字を経由したうえで再び声に戻る、書くことを前提にした口承です。

私たちが今日いるのは、文字以前でも文字の時代でもなく、声と文字が多重に折り重なる時代です。

FOR MANAGEMENT 経営学的に読み解きたいあなたへ

オングの「オラリティとリテラシー」を経営の文脈で読み直すと、3つの実用的視点が立ち上がります。

第一に、自社内のコミュニケーションを「声」と「文字」で棚卸しする視点。あなたの会社の意思決定は、どこまでが議事録・Slack・Notionといった文字に残り、どこまでが廊下の会話・電話・喫煙所の雑談という声で進んでいるか。口承で進むコミュニケーションは速く、共感的で、関係を強化します。一方で記録に残らず、属人化し、新人が再現できません。文字に書かれたコミュニケーションは検索でき、再利用でき、訴訟にも耐えますが、温度を失います。良い経営は、意思決定の重さに応じて声と文字を意識的に使い分ける設計を持っています。Amazonの6ページメモ文化、Stripeの社内Wikiは、声優位の組織が知らずに失っている記録性を制度的に補う試みです。

第二に、社内の「決まり文句」「物語」を口承文化として継承する視点。トヨタの「カイゼン」「現地現物」、リクルートの「自ら機会を作り、機会によって自らを変えよ」、京セラの「アメーバ」――組織の中核理念は、しばしば口承文化の決まり文句として継承されます。オングが描いた口承文化は、決まり文句を繰り返すことで共同体を維持していました。組織における唱和や朝礼は、笑い飛ばす対象ではなく、口承的記憶装置として機能してきた事実があります。

第三に、二次的口承文化への適応。ポッドキャスト、社内Podcast、Loomの動画メモ、生成AIの音声インターフェースは、書くことを前提にした新しい声です。文字より速く、対面より遠くまで届くこの帯域を経営に取り込めるかが、これからの組織の体力を決めます。

声と文字は、競合ではなく重層です。

FOR ACADEMIA 学術的に読み解きたいあなたへ

2. 異分野からの発展的視点 ― ドゥアンヌが解いた「脳に文字を彫りつける文化的リサイクリング」

オングが「書くことは技術である」と書いたとき、それは比喩のつもりだったかもしれません。けれども認知神経科学はこの命題を文字通りの生物学的事実として確認しています。仏コレージュ・ド・フランスのスタニスラス・ドゥアンヌ(Stanislas Dehaene)らが2010年に発表した論文(*Science* 330巻, 1359-1364頁)が決定的でした。

ブラジルとポルトガルから集めた成人63人 ―― 子どものころ読字を学ぶ機会を得られなかった人、成人後に識字教育を受けた人、通常通り就学した人 ―― にfMRIを撮影しながら文字・顔・物体を見せた実験です。結果、読字を習得した人々の脳には、左下側頭葉の特定部位「視覚的単語形態野(VWFA)」に強い活性が現れました。文字を学んだことのない人々のVWFAは静かなままで、識字を後から学んだ人の脳には就学者と同等の活性が立ち上がっていた。新しく作られたVWFAは顔認知領域と隣接し、わずかに競合する ―― 文字認識は進化が用意していた専用回路ではなく、既存回路の一部を「文化的リサイクリング」して獲得されていたのです。

文字が人類に存在するようになって、まだ約5,000年。進化的尺度ではほぼ昨日です。それなのに識字を学んだ脳は、生まれつき備わっていなかった視覚的単語処理回路をわずか数年で物理的に獲得する。オングが「人間の思考様式そのものが組み替わっていく」と書いた現象は、ニューロンの配線書き換えとして観察可能なのです。

QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

次回は「複製・伝達のかたち ― 第13章のまとめ」をお届けします。

NEXT EPISODE 第83話「複製・伝達のかたち ― 第13章のまとめ」 第83話を読む →
メルマガで次話を受け取る PDF版を読む 全100話の地図へ
連載更新・実践事例・関連トピックをお届けします
ようこそ。確認メールをお送りしました。
これから一緒に「変化のかたち」を読み解いていきましょう。