第IV部「支えのかたち」を始めます。第I部「場のかたち」、第II部「媒介のかたち」、第III部「物語のかたち」に続く、社会変化を持続させる第4の構造――見えにくい支えを、3章15話で扱います。最初の章は、第10章「規格・標準化」。共通の物差しが社会を支える仕組みを、6話で辿ります。
口火を切る話題は、現代社会を最も深く支配している規格の一つ――キーボード配列です。あなたが今読んでいるこの文字、私が今書いているこの文字。日本でも欧米でも、キーボードの上段は左から「Q-W-E-R-T-Y-U-I-O-P」と並びます。このQWERTY配列は、なぜ世界標準になったのでしょうか。
物語は1873年に始まります。米国の発明家クリストファー・ショールズ(1819-1890)が、初の商用タイプライター「Type-Writer」をRemington社と共同で完成させました。最初のキー配列は、アルファベット順でした。けれども、当時のメカニカルな機構には、致命的な問題がありました。よく使うアルファベットが近くにあると、隣り合うアームが絡まる「ジャム」が頻発したのです。
ショールズは、技術的な解決策として、よく使う文字をわざと離れた位置に置く配列を設計します。「TH」「ER」「ON」など英語で頻出する組み合わせを、左右の手や離れた位置に分散させた。これが今の QWERTY 配列の原型です。タイピングが速くなりすぎないように、わざと使いにくく作られた配列でした。
問題は、その後のメカニカル進化(1890年代以降)でアームの絡まりが解決されたあとも、QWERTY 配列だけが残り続けたことです。1936年にワシントン大学の教育心理学者オーガスト・ドヴォラックが、人間工学的に最適化された別の配列(ドヴォラック配列)を発明し、タイピング速度の優位性を実証しました。けれども、世界はQWERTYから離れませんでした。
この奇妙な現象を、経済史の問題として理論化したのが、スタンフォード大学経済史教授ポール・デヴィッド(1935-2023)です。1985年の論文「Clio and the Economics of QWERTY」は、現代経済学に「経路依存性(path dependence)」概念を導入する歴史的論文になりました。
デヴィッドの説明:いったん多くの人がQWERTYを学習すると、(1)新しい配列を学ぶコスト、(2)すでに普及している配列を使えるという便利さ、(3)QWERTYでタイピングを訓練された人材を雇いたい雇用主の都合――が積み重なり、より優れた配列があっても切り替わらなくなる。技術選択は最適性ではなく、歴史的な経路によって決定される。
このQWERTY論を、より一般的な経済理論に拡張したのが、サンタフェ研究所教授ブライアン・アーサー(1945-)です。1994年の『Increasing Returns and Path Dependence in the Economy』は、規模の経済(同じ製品の生産が増えると単価が下がる)と並ぶ「収穫逓増(increasing returns)」――同じ規格の利用者が増えると、その規格自体の価値が上がる現象――を理論化しました。
QWERTY、VHS(vs Betamax、1976-1988)、AC電力(vs DC電力、1880-1890)、Microsoft Windows(vs Mac OS、1985年以降)、Wintel(Windows + Intel、1990年代)、AmazonのKDP(vs他のEPUBプラットフォーム)――これらすべてが、経路依存性とロックインのケーススタディです。
そして、最近の決定的なケースが、USB-C の統一です。2010年代、AppleのLightning、Androidの microUSB、PC側のUSB-A・USB-B など、コネクタは群雄割拠の状態でした。2014年のUSB-C規格制定、欧州議会の2022年決議(2024年12月までに全携帯電子機器をUSB-Cに統一)――半世紀近い「規格戦争」が、ようやく一つの収斂を見せた象徴的な事件です。
規格は、見えにくい場所で、社会全体を深く拘束しています。
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規格戦争の経済学を、現代経営に応用すると、3つの戦略的視点が立ち上がります。
第一に、自社の事業領域における「規格」の特定。一見、規格と無縁に見える業界でも、実は隠れた規格が経営を左右しています。書店では「ISBN」「JANコード」、不動産業では「不動産業務支援システム」、医療では「電子カルテシステム」、金融では「全銀システム」「Swift」、物流では「JANコード・GTIN」、農業では「GAP認証」――これらの規格との関係をどう設計するかが、長期競争力に直結します。
第二に、「規格設定」への参入戦略。Amazon、Google、Microsoft、Apple、トヨタ、Sony、SoftBank が共通して取っている戦略の一つは、規格を作る側に回ることです。Amazon AWS、Google Android、Microsoft Office、Apple App Store、トヨタJIT、Sony Blu-ray――どれも自社が規格設定の中核に座ることで、業界全体を間接的に支配しています。中小企業でも、業界団体・コンソーシアム・標準化委員会への参画は、長期戦略の重要要素です。
第三に、「ロックイン」を意識した顧客戦略。SaaSビジネス、サブスクリプション、エコシステム経営は、すべて意識的に「ロックイン」を設計しています。Adobe Creative Cloud、Salesforce、Slack、ZoomInfo、HubSpotなどのツールは、いったん導入されると切り替えコストが高い設計になっています。健全なロックインは、顧客に高い継続価値を提供し、解約コストではなく継続価値で繋ぎとめる設計です。
規格は、見えない経営戦略の主戦場です。
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2. 異分野からの発展的視点 ― グールドが解いた「カンブリア紀のバージェス頁岩」
QWERTYが残ったのは合理的最適だからではなく、最初の偶然的選択が固定化したロックインの結果でした。この発見の射程は経済史を越えて、生命の歴史そのものに広がります。1989年、米ハーバード大学のスティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould)は『Wonderful Life: The Burgess Shale and the Nature of History』(W.W. Norton)を刊行し、カナダ・ロッキー山脈で発見された約5億年前のバージェス頁岩の化石群から、進化論の中心命題を立て直しました。
頁岩からは、オパビニア(5つの目)、アノマロカリス(巨大な触手)、ハルキゲニア(体軸が逆さま)など、現代のどの動物分類群にも属さない独立した「門」レベルの構造を持つ動物が大量に出土しました。グールドの主張は革命的でした ―― カンブリア爆発の時点では現在より遥かに多様な体制が存在しており、そこから生き残ったのは必ずしも最も効率的な設計ではなく、たまたま絶滅を免れたものだった。時間を巻き戻して進化を再演したら、まったく異なる動物相が地球を覆っていただろう、と。
QWERTY、VHS、Microsoft Windows、USB-Cの遅すぎる統一 ―― 経路依存性は社会の偶然ではなく、生命が46億年の歴史でずっと使い続けてきた、進化の文法そのものでした。
次回は「経路依存性とロックイン ― ポール・デヴィッドからブライアン・アーサーへ」をお届けします。
