物語が経済を動かし、自己を支え、ブランドを成立させ、神話を反復し、地域を再生する――ここまで物語の「外側への作用」を辿ってきました。けれども、物語にはもうひとつの、より個人的で根源的な働きがあります。人が生きる苦しみを支える働きです。本話では、20世紀のオーストリアの精神科医ヴィクトール・フランクル(1905-1997)の仕事を辿ります。
フランクルは、ジークムント・フロイト、アルフレッド・アドラーに続くウィーン心理学派「第三の流れ」の代表者です。フロイトが「快楽への意志」を、アドラーが「力への意志」を人間の根源と見たのに対し、フランクルは「意味への意志(Wille zum Sinn)」――人間は意味を求める存在である――を提唱しました。
彼の思想を深く決定づけたのは、第二次世界大戦中の体験でした。1942年、フランクルは妻、両親、兄と共にナチスの強制収容所に送られます。アウシュヴィッツを含む4つの収容所での3年間に、家族のほぼ全員が命を落としました。フランクル自身は、奇跡的に生き延びます。
戦後、彼は1946年に『それでも人生にイエスと言う(trotzdem Ja zum Leben sagen)』を出版(英訳タイトル『Man's Search for Meaning(夜と霧)』、1959年初版)。この本は世界中で1,600万部以上売れ、19言語に翻訳された20世紀の精神医学・哲学の古典になります。
本の主題は、極限的な苦難のなかで人は何によって生き延びることができるか、という問いです。フランクルの観察は厳格で、感傷的ではありませんでした。収容所で生き延びた人々の特徴は、体力や知性ではなく、自分の苦難に意味を与える物語を持っていたかどうかでした。「家族にもう一度会うため」「未完成の研究を完成させるため」「この経験から世界に伝えるべきものがあるはずだ」――どんな物語であれ、未来に向けた意味の物語を持つ人々が、絶望的状況のなかでも生命と人格を保ちました。
この観察から、フランクルは戦後、ロゴセラピー(Logotherapie、意味療法) を体系化します。彼によれば、現代人が抱える深い苦しみの多くは、「実存的真空(existenzielles Vakuum)」――人生に意味が見出せない感覚――から来ます。ロゴセラピーは、患者の症状を診断することよりも、患者が自分の人生に意味の物語を見出す手助けを中核に置きます。
フランクルが提示した人生の意味の3つの源泉が、簡潔で強力です。第一に、創造の価値――何かを作り、世界に貢献することで意味を見出す。第二に、体験の価値――愛、自然、芸術、真理を体験することで意味を見出す。第三に、態度の価値――不可避の苦しみに対して、どんな態度で向き合うかによって意味を見出す。第三の価値が、フランクルが収容所で発見した最も深い洞察でした。
フランクルの仕事は、20世紀末から21世紀にかけて、ナラティブ・セラピー運動として発展していきます。オーストラリアのマイケル・ホワイト(1948-2008)とニュージーランドのデヴィッド・エプストンは、1990年の『Narrative Means to Therapeutic Ends』で、患者を診断的物語から解放し、自分自身の物語を再構築するプロセスを治療の中核に据える方法論を体系化しました。
物語は、苦難を取り除くのではなく、苦難を生きる方法を変える。
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フランクルとナラティブ・セラピーの組織への応用は、3つの方向性で実践されています。
第一に、社員の「意味の3価値」へのアクセス支援。エンゲージメント・サーベイで「会社のミッションに共感している」「自分の仕事に意義を感じる」が高い組織は、離職率が低く、生産性が高い。Imperative、BetterUp、Kornferryの調査が一貫して示しています。経営者の仕事は、社員一人ひとりが、創造の価値(仕事の貢献)、体験の価値(職場の関係・成長)、態度の価値(困難への向き合い方)の3つにアクセスできる環境を作ることです。
第二に、組織変革における「意味のナラティブ」。Lou Gerstnerが1990年代にIBMを再建した際、最初にしたことは「IBMが世界に存在する意味」を社員に語り直すことでした。Mary BarraがGMで採用したアプローチも、Satya NadellaがMicrosoftで採用したアプローチも同じです。組織の苦しい時期に、「なぜ我々はここにいるのか」を語り直す経営は、フランクル意味療法の組織版です。
第三に、「キャリア・ナラティブ」のコーチング。Herminia Ibarra "Working Identity"(2003年)、David Drake "Narrative Coaching"(2007年)、Michael White & David Epston型のナラティブ・アプローチを採用するエグゼクティブ・コーチングは、過去5年で急速に拡大しています。「自分の人生をどう物語るか」を再構築できると、停滞期や転職期や退職期の意思決定が、自分自身に納得できる選択になります。
物語は、苦難をどう意味に変換するかという、人類最古で最新の技術です。
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2. 異分野からの発展的視点 ― ボイルが示した「人生に目的がある人は認知症リスクが半減する」
フランクルが「意味への意志」を提唱したとき、それは哲学的な概念でした。70年後、その命題が測定可能な医学的効果を持つことを、米シカゴのラッシュ大学医学センターのパトリシア・ボイル(Patricia Boyle)の研究が示しました(*Archives of General Psychiatry* 67巻, 304-310頁, 2010)。
ボイルらはRush Memory and Aging Projectのコホート900人余を約7年間追跡し、認知症発症との関連を調べました。研究の鍵は、被験者全員に「Ryff Purpose in Life Scale」(人生の目的尺度、10項目)を測定したことでした。結果は明瞭でした ―― 人生の目的スコアが上位10%の人は、下位10%の人と比べて、アルツハイマー型認知症の発症リスクが約2.4倍低かった。年齢・性別・教育・抑うつ症状・神経症傾向を統制しても効果は残り、軽度認知障害への進行リスクも有意に低く、追跡期間中の認知機能低下速度も緩やかでした。
フランクルがアウシュヴィッツで発見した「意味の物語を持つ人が生き延びる」という観察は、現代の高齢者疫学のなかで医学的に測定可能な現象として再確認されました。意味療法は感傷でも宗教でもなく、神経-免疫系を介して脳の構造そのものを保護する、人類が利用しうる強力な認知症予防介入のひとつです。物語は、命を文字通り長く支えています。
次回は「物語付加のかたち ― 第7章のまとめ」をお届けします。
