PART III 物語のかたち 第7章 物語付加 第43話
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ナラティブ・アイデンティティ ― リクールの自己論

経済の動きを物語が動かしている、とシラーは言いました。けれども、もっと根本的な問いがあります。人間が「自分」だと感じている自己そのものが、物語ではないか――。この問いを、20世紀後半に最も深く掘り下げたのが、フランスの哲学者ポール・リクール(1913-2005)です。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約—分 PDF版で読む

経済の動きを物語が動かしている、とシラーは言いました。けれども、もっと根本的な問いがあります。人間が「自分」だと感じている自己そのものが、物語ではないか――。この問いを、20世紀後半に最も深く掘り下げたのが、フランスの哲学者ポール・リクール(1913-2005)です。

リクールの仕事は、現象学(フッサール、メルロ=ポンティ)と解釈学(ガダマー)と分析哲学(ウィトゲンシュタイン)と精神分析(フロイト)を縦横に往復しながら、「人間の経験のなかで物語はどう機能しているか」を問い続けたものでした。1983年から1985年に出版された3巻本『時間と物語(Temps et Récit)』は、彼の主著の一つです。

『時間と物語』の出発点は、聖アウグスティヌス『告白』第11巻の「時間とは何か」の問いと、アリストテレス『詩学』のミメーシス(模倣)論との接続でした。リクールは、人間の経験する「時間」と、物語の「筋立て(plot)」が、深く結びついていると考えました。物語は、過去・現在・未来をつなぐ「筋立て(intrigue)」のなかで、ばらばらな出来事を一つの意味のある全体として組織化する。逆に言えば、人間が自分の人生を「意味のあるもの」として経験できるのは、それを物語として組織化できるからです。

リクールはこの組織化の過程を、3段階の「ミメーシス」として定式化しました。ミメーシスI(前形象化) は、物語が始まる前の生きられた経験。ミメーシスII(形象化) は、その経験が筋立てに組み織り込まれる過程。ミメーシスIII(再形象化) は、織り上げられた物語が読み手・聞き手の経験を再び形作り直す過程。物語は、生から物語へ、物語から生へ、と循環する。

1990年の『他者のような自己自身(Soi-même comme un autre)』で、リクールはこの理論を「自己」の問題に展開します。「私は誰か」という問いに、二つの答えがあります。イデムイテ(idem-ité、同一性) は、時間が流れても変わらない自己の連続性。指紋・DNA・名前のような、客体化できる同一性。イプセイテ(ipséité、自己性、自分性) は、時間とともに変化しながらも自分であり続ける自己の能動性。「私は約束を守る」「私は信頼する/される」という関係的な自己。

リクールが提唱した「ナラティブ・アイデンティティ」は、この二つの自己を物語によって接続する概念です。私は、自分の人生を一つの物語として語り直すことで、変化する自分(イプセイテ)を、変わらない自分(イデムイテ)と統合する。アイデンティティは「持つ」ものではなく、「語り直す」ものである。

この概念は1990年代以降、心理学・教育学・社会学・組織論・医療人類学に大きな影響を与えました。心理学者ダン・マクアダムスは『The Stories We Live By』(1993年)で、人格を「内的な物語」として研究するナラティブ心理学を立ち上げます。ジェローム・ブルーナーは『Acts of Meaning』(1990年)で、認知発達における物語の役割を理論化しました。

人は、語ることで自分になっていきます。

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リクールの物語的自己論は、現代の組織論・キャリア論にも深く浸透しています。

第一に、組織のアイデンティティ・ナラティブ。組織には変わらない自己(理念・ミッション)変わる自己(事業・組織・人材) があります。両者を物語で接続できる組織は、長期にわたる変革に耐えます。Johnson & Johnson の Credo、IBM の "Think"、トヨタの「自働化」「ジャスト・イン・タイム」、ホンダの「ワイガヤ」など、優れた企業の理念は、現状の自己と未来の自己を物語で結びつける機能を担っています。

第二に、「キャリア・ナラティブ」の経営。米国の組織心理学者Herminia Ibarra(ロンドン・ビジネス・スクール)は『Working Identity』(2003年)『Act Like a Leader, Think Like a Leader』(2015年)で、キャリアの転換期に必要なのは、新しい「物語」を語れるようになることだと論じています。リーダーシップ開発の現場では、自分の人生を物語として語り直すワークショップ(ナラティブ・コーチング)が一般的になっています。

第三に、組織変革における「変革のナラティブ」。Stephen Denning『The Leader's Guide to Storytelling』(2005年)は、組織変革を支える物語の設計を体系化。Howard Schultz が Starbucks の「コーヒーへの情熱」物語、Satya Nadella が Microsoft の "growth mindset" 物語を語り直したことが、両社の変革の動力源になりました。

組織の戦略は数字で表現されますが、組織の自己は物語で形作られます。

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2. 異分野からの発展的視点 ― アンドリュース=ハンナが捉えた「自己を物語る脳の回路」

「私は誰か」「私の人生は何だったか」という問いに人間が答えるとき、脳のどこが働いているのか。2010年、米コロラド大学ボルダー校のジェシカ・アンドリュース=ハンナ(Jessica Andrews-Hanna)らは、この問いにfMRIで直接の解剖学的回答を返しました(*Neuron* 65巻, 550-562頁)。

明らかになったのは、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)の中核 ―― 内側前頭前野・後部帯状回・側頭頭頂接合部・海馬 ―― が、自伝的記憶の想起、将来の自分の行動シミュレーション、自己と他者を比較する思考のすべてで同期して活性化することでした。決定的だったのは、これらすべてが「時間軸上で自分を構成する作業」に共通して必要だったという事実です。過去の自分を思い出すこと、未来を想像すること、「もし別の選択をしていたら」と仮想することは別々の認知活動ではなく、同じ神経回路の上で行われていたのです。

リクールが現象学・解釈学の言葉で描いた「ナラティブ・アイデンティティ」 ―― イデムイテとイプセイテを物語で接続し続ける自己の作業 ―― は、いま神経科学が観察できる脳のDMN活動と、驚くほど精密に対応しています。「人は語ることで自分になっていく」という命題は哲学の隠喩ではなく、脳の解剖学に裏打ちされた事実だったのです。

QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

次回は「ブランド・ナラティブの経営学」をお届けします。

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