PART II 媒介のかたち 第4章 市民専門家 第26話
26./ 100

市民科学の100年 ― シチズンサイエンスの系譜

「科学は専門家のもの」という見方は、意外にも歴史のなかでは新しい考え方です。19世紀の半ばまで、科学はむしろ素人の活動でした。チャールズ・ダーウィンは大学に職を持たない私的研究者で、グレゴール・メンデルは修道僧、ベンジャミン・フランクリンは印刷業者でした。「プロフェッショナルとしての科学者」という肩書きが定着するのは、

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約—分 PDF版で読む

「科学は専門家のもの」という見方は、意外にも歴史のなかでは新しい考え方です。19世紀の半ばまで、科学はむしろ素人の活動でした。チャールズ・ダーウィンは大学に職を持たない私的研究者で、グレゴール・メンデルは修道僧、ベンジャミン・フランクリンは印刷業者でした。「プロフェッショナルとしての科学者」という肩書きが定着するのは、1830年代の英国でウィリアム・ヒューウェルが「scientist」という言葉を造語してから後のことです。

逆に言えば、科学はもともと市民の活動でした。1789年、英国の田舎の牧師ギルバート・ホワイトが出版した『セルボーンの博物誌』は、村の自然観察を50年にわたって記録した本です。鳥の渡り、植物の開花時期、虫の発生周期。彼は職業科学者ではなく、教区の暮らしの傍らで自然を観察した「素人」でした。けれども彼の記録は、後の生態学・気象学・自然史の基礎データになっていきました。

20世紀に入ると、市民科学は組織化されていきます。1900年、アメリカ鳥類学協会のフランク・チャップマンが、「クリスマス・バード・カウント」を立ち上げました。クリスマスの日に、北米中の鳥類愛好家が、それぞれ自分の地域で見た鳥の種類と数を記録する。20世紀のあいだに、これは累計数百万人が参加する世界最大級の生態学データセットになりました。北米の鳥類の長期的な分布変化、絶滅危惧種の早期警戒、気候変動の生物指標。専門研究機関だけでは到底集められない量のデータが、毎年のクリスマスに、世界中の素人観察者から集まってきます。

シチズンサイエンス」という言葉が学術用語になるのは、1995年のことです。英国の社会学者アラン・アーウィンが同名の著書で、市民が科学的データの収集と解釈に参加することの認識論的・政治的意義を体系化しました。シチズンサイエンスは「専門家を補助する手段」ではなく、「専門家の権威を脱構築する装置」だ、というのがアーウィンの主張です。

21世紀に入ってから、市民科学は爆発的に拡張しました。2002年、コーネル大学がeBirdを立ち上げ、世界中のバードウォッチャーが日々の観察を記録できるようにしました。2007年のGalaxy Zooは、ハッブル望遠鏡の銀河画像を世界中の素人天文家が分類するプロジェクト。2008年のiNaturalistは、生物の写真をAIと専門家がリアルタイムで同定するプラットフォーム。同年のFolditは、タンパク質の折りたたみを「ゲーム」として市民が解く試みで、HIV関連プロテアーゼの3D構造を15日間で解明し、専門研究の停滞を破りました。

2014年、アメリカの生物学者リック・ボニーらが『サイエンス』誌に発表した「シチズンサイエンスの次のステップ」は、この運動が標準的な科学方法論として制度化される転換点となりました。

科学は、専門家だけのものではないことを、市民は再び証明しています。

FOR MANAGEMENT 経営学的に読み解きたいあなたへ

組織における「シチズンサイエンス的アプローチ」は、近年のオープン・イノベーション戦略の核になりつつあります。

第一に、社外との「知の共生産」プラットフォーム。Procter & Gambleの「Connect+Develop」(2000年代から)は、自社R&Dの50%を社外発のアイデアにする目標を掲げ、世界中の研究者・発明家・スタートアップから技術を取り込む仕組みを作りました。LEGOの「LEGO Ideas」は、ファンが提案したセット案を投票で正式商品化する仕組み。Threadlessのデザインクラウドソーシングも同じ系譜です。

第二に、社員自身を「市民科学者」として動員する。Googleの「20%プロジェクト」、3Mの「15%ルール」、Atlassianの「ShipIt Day」――これらはすべて、肩書き上は専門外の社員が、自由に試行錯誤するための時間と権限の確保です。Gmail、AdSense、Post-itといった大ヒット商品が、こうした「素人時間」から生まれました。

第三に、ユーザーを「観察者」として組み込む。コニカミノルタやSONYの「ベータ・テスター制度」、Microsoftの「Insider Program」、Salesforceの「Trailhead Community」など、ユーザーが製品の進化に参加する仕組み。これは1990年代のEric von Hippel "Democratizing Innovation"(MIT Press, 2005)が体系化した「ユーザー・イノベーション」論の現代版です。

ただし、シチズンサイエンス的アプローチには明確な落とし穴があります。「市民の声を集める」だけでは、認知バイアスの増幅になりかねない。本物のシチズンサイエンスが機能するには、データの質を保証する仕組み、専門家の関与の仕方、参加者へのフィードバック構造が必要です。「市民の参加 + 専門家の質保証」が成立する設計こそが、組織の知の生産性を底上げします。

FOR ACADEMIA 学術的に読み解きたいあなたへ

2. 異分野からの発展的視点 ― ゲーマーが10日で解いた、15年来の構造生物学の難問

市民が科学の主体になれるという主張は長らく観念論として扱われてきました。しかし2011年、自然科学誌『Nature Structural & Molecular Biology』18巻に発表された一本の論文(1175-1177頁)が、その風景を一変させました。

研究の背景にあったのは、米ワシントン大学のSeth Cooperらが2008年に開発したオンラインゲーム「Foldit」でした。タンパク質の三次元折りたたみ構造を、誰でもパズル感覚で解けるよう設計されたゲームです。プレイヤーはアミノ酸の鎖をマウスで掴み、ねじり、引っ張って、最もエネルギーの低い安定構造を探す。実験対象は、サル由来のM-PMVレトロウイルス・プロテアーゼ ―― 構造生物学者が15年にわたって解明できなかった酵素の三次元構造でした。X線結晶解析もNMRも失敗していたこの構造を、Folditの市民プレイヤーたちはわずか10日で、計算機の自動アルゴリズムを上回る精度で提示したのです。論文の著者欄にはゲーマーたちの名前がそのまま記載されました。

19世紀末のChristmas Bird Countから、Foldit、Galaxy Zoo、iNaturalist、Long COVID Patient-Led Research Collaborativeまで ―― 市民科学の系譜は、専門家の独占を解体することではなく、専門家の探索ヒューリスティクスを補完する希少な認知資源として市民の直感と多様性を組み込む仕組みでした。科学は、研究室の外側で続いているのです。

QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

次回は「自助グループ運動 ― AAから現代へ」をお届けします。

NEXT EPISODE 第27話「自助グループ運動 ― AAから現代へ」 第27話を読む →
メルマガで次話を受け取る PDF版を読む 全100話の地図へ
連載更新・実践事例・関連トピックをお届けします
ようこそ。確認メールをお送りしました。
これから一緒に「変化のかたち」を読み解いていきましょう。