人類の知られているあらゆる文化に、音楽があります。子守唄、労働歌、祭礼の音楽、宗教音楽、コンサート、コーラス、応援、酒場の歌――形は違っても、音楽のない人類社会は存在しません。これは進化的に見ると不思議な事実です。音楽は食べられないし、住むこともできない。なぜ私たちはこれほど音楽に時間とエネルギーを費やすのでしょうか。
音楽人類学(ethnomusicology)は、世界中の音楽文化を比較研究することで、この問いに答えようとしてきました。米コロンビア大学のアラン・メリアム『The Anthropology of Music』(1964年)は、音楽が「コミュニケーション」「身体的反応」「象徴的表現」「個人と社会の統合」など、複数の社会的機能を果たしていることを示しました。音楽は単なる娯楽ではなく、社会を編む基本的な装置だったのです。
音楽が社会を結ぶ最も基本的なしくみは、リズムの同期です。複数の人が同じリズムで動く――歌う、踊る、行進する、拍手する――とき、参加者の心拍・呼吸・動作が文字通り同期します。第65話の祭りや第70話のコムニタスで取り上げた「集合的沸騰」の中核には、この音楽的同期があります。米スタンフォード大学のスコット・ウィルトラスらは、集団歌唱中のオキシトシン上昇、社会的絆の強化、痛みへの耐性の上昇などを実証してきました。
進化生物学的には、音楽の起源について複数の仮説があります。英ケンブリッジ大学の心理学者イアン・クロス、米ルイス&クラーク大学のロビン・ダンバーらは、音楽が「言語以前のコミュニケーション」「集団の絆形成」「子育てにおける母子の同期」のなかで進化したと論じています。音楽は人類の社会性そのものを支える基盤として、何十万年も前から存在してきた可能性があります。
日本の音楽文化も、独自の社会的機能を発展させてきました。雅楽の宮廷儀礼、能楽の精神性、民謡の労働歌、盆踊りの集団的沸騰、現代のJ-POPと推し活(第72話と関連)――それぞれが社会の異なる層を編む装置として機能してきました。民俗音楽研究者の小泉文夫(東京藝術大学名誉教授)は世界各地の民俗音楽を比較研究し、日本の音階・リズムの独自性を世界の音楽文化のなかで位置づけました。
日々の暮らしのなかで、音楽が果たしている役割を意識化することは価値があります。一人で聴く音楽、家族と歌う音楽、コンサートで他の観客と感情を共有する音楽、職場のBGM――これらすべてが、自分と社会の関係を編んでいます。意識的に音楽の時間を持つことは、自分のなかの社会性を維持する具体的な技法でもあるのです。
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音楽人類学(ethnomusicology)は、米コロンビア大学のアラン・メリアム(1964年)、米イリノイ大学のブルーノ・ネトル(1983年)が基礎文献です。音楽心理学では、米シカゴ大学のジョン・スロボーダ、英ケンブリッジ大学のイアン・クロスが代表的研究者。集団歌唱・同期の研究は、米スタンフォード大学のスコット・ウィルトラス、英オックスフォード大学のロビン・ダンバーらが進めています(Pearce, E., Launay, J., & Dunbar, R. I. M. 2015, R Soc Open Sci)。神経科学では、米マギル大学のロバート・ザトーレ、フィンランドのユヴァスキュラ大学のペッツリ・トイヴィアイネンらが音楽と脳の関係を継続的に研究。日本では民俗音楽研究の小泉文夫(1927-1983)の系譜を、徳丸吉彦(お茶の水女子大学名誉教授)、藤田隆則(京都市立芸術大学)らが継承。音楽社会学では渡辺裕(東京大学名誉教授)、毛利嘉孝(東京藝術大学)らが現代日本の音楽文化を分析しています。音楽は、エンターテインメントから、進化生物学・神経科学・社会学・人類学を横断する研究領域へと広がっています。
集団歌唱の参加者は痛みへの耐性が約20-30%上昇、オキシトシンが上昇(Pearce, E. et al. 2015, R Soc Open Sci, 2(10): 150221)。
人類の知られている全ての文化に音楽があり、音楽の起源は5万年以上前と推定(Mithen, S. 2005, The Singing Neanderthals)。
日本の音楽市場は2023年に約3,800億円(日本レコード協会2024年統計)。ライブ市場約4,200億円と合わせて約8,000億円規模。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Merriam, A. P. (1964). The Anthropology of Music. Northwestern University Press.音楽人類学の基礎文献。
- Mithen, S. (2005). The Singing Neanderthals. Weidenfeld & Nicolson.音楽の起源論。
- Pearce, E., Launay, J., & Dunbar, R. I. M. (2015). "The ice-breaker effect." Royal Society Open Science, 2(10): 150221.集団歌唱と社会的絆。
- Sloboda, J. A. (1985). The Musical Mind. Oxford University Press.音楽心理学の古典。
- 小泉文夫(1958)『日本伝統音楽の研究』音楽之友社日本の民俗音楽学。
音楽が社会を結ぶなら、地域に根ざした「民俗芸能」もまた、いまも続いている独自の意味を持っているはずです。次回は、民俗芸能がなぜ現代まで残っているかを、民俗芸能論から辿ります。
