日曜日の午後、家族でショッピングモールに行く。特に必要なものはないけれど、何時間か歩き、いくつかの店を見て、コーヒーを飲んで、結局少しだけ買って帰ってくる。この時間を「無駄遣い」「消費社会の罠」と片付けるのは簡単ですが、人類学的に見ると、ショッピングは単なる「物を買う」行為以上のもの――社会的儀礼として機能していたのです。
英国の人類学者ダニエル・ミラーは1998年の著書(『A Theory of Shopping』)で、北ロンドンの主婦のショッピング行動を1年以上密着観察し、ショッピングが家族への愛の表現、関係性の編み直し、自己アイデンティティの確認として行われていることを示しました。「あの人はあれが好きだから」「家族はこれを必要としている」――買い物は、家族・友人・自分への配慮(愛)の物質化だったのです。
経済人類学では、消費行為が社会関係を編む装置として研究されてきました。第45話で取り上げたモースの『贈与論』が示したように、贈り物は関係を編みます。同じく、自分のために買うものも、他者と社会への自分の位置を編む実践になります。「何を買うか」は、自分が何を大切にしているかの表明であり、自分のアイデンティティを社会の中で位置づけ直す作業でもあるのです。
近年は、消費の意味も複雑化しています。エシカル消費、ローカル消費、ミニマリズム、サブスクリプション、シェアリングエコノミー――これらは「単に買う」を超えて、「どう買うか」「何を買わないか」が個人の倫理と価値観の表現になっていることを示しています。米社会学者ジュリエット・ショアは『The Plenitude Economy』(2010年)で、現代の消費が「もの」から「経験」「関係」「意味」へ移行していることを論じました。
ショッピングモールという空間そのものも、社会人類学の対象です。米建築学者のマーガレット・クロフォードらは、モールを「現代のメインストリート」「準公共空間」として分析。家でも職場でもない第三の場所(第80話と関連)として、特に若者や高齢者にとってのコミュニティ機能を果たしていることが指摘されています。一方で、私有地ゆえの排除のデザイン(第91話で詳述予定)も内包する両義的な空間です。
日々の暮らしのなかで、ショッピングを「消費」だけで捉えるのではなく、「関係を編む」「自己を表現する」「社会と対話する」儀礼として位置づけ直すと、買い物の経験そのものが豊かになります。同時に、何を買うか・買わないかの選択が、より自分らしいものになっていきます。
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消費の人類学は、英国の人類学者ダニエル・ミラーが代表的な研究者です。彼の(1998年)と(2008年)は、消費行為を物質文化研究の中心に位置づけました。経済人類学では、フランスのマルセル・モース『贈与論』(1925年、第45話と共通)、米コロンビア大学のシドニー・ミンツ『甘さと権力』(1985年)、ハンガリー出身のカール・ポラニー『大転換』(1944年)が古典的著作。米経済社会学者ヴィヴィアナ・ゼリザー(1994年)は、お金の使い方が社会的意味を持つことを示しました。日本では消費社会論の見田宗介(東京大学名誉教授)、消費文化研究の吉見俊哉(東京大学)、経済社会学の渡部薫(東京大学)らが、日本における消費の意味の変遷を研究しています。エシカル消費・サステナブル消費の研究では、米マサチューセッツ州立大学のジュリエット・ショア、英オープン大学のローレン・コープランドらが新しい消費のかたちを継続的に追っています。
日本の個人消費は2023年に約300兆円、GDPの約55%を占める(内閣府「国民経済計算」2023)。
「経験消費」の市場規模は2010年以降に約3倍に成長(フィットネス・旅行・サブスクリプション等、経済産業省2023年推計)。
エシカル消費を意識する日本人は2022年に約60%、2010年の約20%から大幅増加(消費者庁「エシカル消費に関する意識調査2022」)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Miller, D. (1998). A Theory of Shopping. Cornell University Press.ショッピングの人類学。
- Miller, D. (2008). The Comfort of Things. Polity.物の人類学。
- Mintz, S. W. (1985). Sweetness and Power. Penguin.消費の文化人類学。
- Schor, J. B. (2010). Plenitude. Penguin Press.新しい消費論。
- 吉見俊哉(2007)『親米と反米』岩波新書日本の消費文化研究。
消費が儀礼なら、近代の生産――工場という場所――もまた、ただの労働の場ではなく、人間の身体を再設計してきた装置だったかもしれません。次回は、工場が人間の身体に何をしてきたかを、労働の身体論から辿ります。
