夕暮れの空に思わず立ち止まる、コーヒーの湯気の動きをじっと見てしまう、子どもの寝顔を眺めているうちに時間を忘れる、いい音楽の最初の数秒で胸が動く――「美しい」と感じる瞬間は、誰の人生にもたしかに散りばめられています。けれど、忙しい日々のなかで、そうした瞬間を5秒立ち止まって受け取ることは、思っているより難しい。気がつくとスマートフォンを見ていて、空の色をちゃんと見たのはいつだったか思い出せない、という日もあります。
「美しい」を、私たちは長らく贅沢や装飾の問題だと考えてきました。生活の必需品ではなく、余裕があるときだけ味わうもの。けれど、ここ20年の神経美学の研究は、「美しい」と感じる瞬間が、脳と心の健康にとって意外なほど基礎的な役割を持っていることを示しはじめています。美に触れることは、贅沢ではなく、人間の脳が本来必要としている栄養の一つだったのです。
美しいと感じるとき、脳のなかでは特定のネットワークが活性化します。報酬系が動き、自分について考えるときに使うネットワーク(デフォルトモード)が立ち上がる。これは何を意味するかというと、美に打たれる経験は、実は「自分を見直す」経験と同じ神経基盤を持っているということです。いい絵を見たり、いい音楽を聴いたりしたときに、自分の何かが揺さぶられるあの感覚は、脳のなかで自分自身の理解が更新されている瞬間なのです。
これは、美術館にあるものだけが美しいのではない、ということでもあります。毎朝の通勤路で見る空の色、料理の湯気、子どもの絵、本の文字組み、季節の変化、誰かの笑顔――どんなに小さなものでも、自分の内側で何かが動く瞬間があるなら、それは脳がたしかに反応している証拠です。生活のなかに美しい瞬間をいくつ拾えるかは、気分の安定や認知機能の維持に、思っているより大きな影響を与えています。
美に触れる時間を意識的に作ることは、健康行動の一つでもあります。世界保健機関(WHO)は2019年、芸術活動への参加が精神的・身体的健康に明確な効果を持つことを大規模なエビデンス・レビューで示しました。美術館に行く、コンサートに足を運ぶ、本を読む、絵を描く、音楽を演奏する、自然を歩く――どれも医療と同じくらい、脳と心の健康を支える基礎活動として理解されはじめています。
「美しい」は、装飾でも贅沢でもありません。脳が世界と自分のあいだに、もう一つの意味を発見する、毎日の小さな儀式です。一日に一度、5秒だけ立ち止まって何かを「美しい」と思う時間を作ることは、自分への最も基礎的な手入れになります。
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神経美学を一つの分野として立ち上げたのは、英国ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの神経科学者セミール・ゼキです。1999年の著書『内なる視覚』でゼキは、視覚の脳科学の知見を芸術鑑賞に橋渡しし、美の経験が脳のどこで生まれるかという問いを科学の俎上に載せました。2011年、ゼキの研究室から「美しいと感じるとき、絵画でも音楽でも数式でも、共通して内側眼窩前頭皮質(mOFC)が活性化する」という研究結果がPLOS ONEに発表され、脳のなかに美の共通基盤がある可能性が示されます(石津智大が筆頭著者)。米ペンシルベニア大学のアンジャン・チャタジーは、美の経験を「快」「意味」「動機」の三つの基本要素に分解する枠組みを提示しました。米ニューヨーク大学のエドワード・ヴェッセルらは、絵画に強く心を動かされる瞬間に脳のデフォルトモードネットワークが活性化することを示しています。デフォルトモードは自分について考えるときに働く回路で、「美に打たれる」経験は実は「自分を見直す」経験と同じ神経基盤を持っていたのです。日本では京都大学の乾敏郎が認知神経科学の立場から、関西大学の石津智大らが脳画像と美的経験の関係を継続的に追っています。世界保健機関(WHO)の欧州事務局は2019年、芸術と健康に関する大規模なエビデンス・レビューを発表し、芸術活動への参加が精神的・身体的健康に明確な効果を持つことを示しました。
美しいと感じるとき、絵画・音楽・数式のいずれでも内側眼窩前頭皮質(mOFC)が共通して活性化する(Ishizu, T. & Zeki, S. 2011, PLOS ONE, 6(7): e21852)。
WHO 2019年レビューは900以上の研究を統合し、芸術活動が精神的・身体的健康に明確な効果を持つと結論(Fancourt & Finn, WHO Regional Office for Europe)。
芸術鑑賞中に強く心を動かされる瞬間、デフォルトモードネットワークと報酬系が同時に活性化(Vessel, Starr, & Rubin 2012, Front Hum Neurosci, 6: 66)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Zeki, S. (1999). Inner Vision: An Exploration of Art and the Brain. Oxford University Press.神経美学の出発点となる総合書。
- Ishizu, T. & Zeki, S. (2011). "Toward a brain-based theory of beauty." PLOS ONE, 6(7): e21852.DOI: 10.1371/journal.pone.0021852 / 美の共通脳基盤を示した研究。石津・ゼキ。
- Chatterjee, A. & Vartanian, O. (2014). "Neuroaesthetics." Trends in Cognitive Sciences, 18(7): 370-375.DOI: 10.1016/j.tics.2014.03.003 / 神経美学の総説。
- Vessel, E. A., Starr, G. G., & Rubin, N. (2012). "The brain on art..." Frontiers in Human Neuroscience, 6: 66.DOI: 10.3389/fnhum.2012.00066 / デフォルトモードと美の経験。
- Fancourt, D. & Finn, S. (2019). What is the evidence on the role of the arts in improving health and well-being? WHO Regional Office for Europe.WHOによる芸術と健康のエビデンス・レビュー。
- 石津智大(2019)『神経美学 ― 美と芸術の脳科学』共立出版日本語による神経美学の本格的入門書。
「美しい」と感じることが脳の自己更新だとすれば、私たちが「文化」と呼んでいる集合的な営みもまた、脳と社会のあいだの長い対話の産物なのでしょう。次回からPART V後半は、メディア・ショッピング・図書館・公園といった共有される場所のかたちを、暮らしの視点から辿っていきます。
