PART IV ケアと遊 ・ 医療・ヘルスケア #05
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治療より、予防より、ケアの時代が来る

― ケア論が示す、医療パラダイムの転換

Beyond Treatment and Prevention, the Age of Care

20世紀の医療は「治療」が中心でした。21世紀に入り「予防」が重視されるようになりました。そしていま、その先に「ケア」を据える視点が広がりつつあります。3つの視点の違いと、これからの暮らしの基盤を考えます。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 人文学 / ケア論・医療哲学

20世紀の医療は、「治療」を中心に発展しました。病気を発見し、薬や手術で治す。感染症の制圧、外科手術の高度化、抗がん剤――近代医学の偉大な成果のほとんどは、この治療の枠組みのなかで生まれました。21世紀に入り、「予防」が重視されるようになりました。生活習慣病の予防、健診による早期発見、ワクチン――病気になる前に対処することが、医療の主軸の一つになっています。

そしていま、その先に「ケア」を据える視点が広がりつつあります。治療と予防は「病気になるかならないか」を扱うのに対して、ケアは「病気と共に生きる」「老いと共に生きる」「弱さと共に生きる」ことを支えます。すべての人は最終的に老い、衰え、最後には死にます。この事実から目を背けず、最後までその人らしく生きることを支える――この発想が、現代の医療哲学の中心に据え直されつつあるのです。

ケアの哲学を体系化したのが、米国の哲学者ジョーン・トロント、ヴァージニア・ヘルド、キャロル・ギリガン(第71話と共通)らです。彼女たちは、近代の自律的個人を中心にした倫理から、相互依存と関係性を中心にしたケアの倫理へのパラダイム転換を示しました。「病気を治す」だけでも、「予防する」だけでもなく、依存と支え合いを暮らしの基盤として認め直すこと――これがケアの時代の核心です。

実践的には、緩和ケアの拡大、在宅医療の充実、地域包括ケアシステム、認知症フレンドリー社会の構築など、多くの動きが進んでいます。日本では2025年問題(団塊の世代がすべて後期高齢者に)に向けて、地域包括ケアシステムが2014年から推進されてきました。医療・介護・予防・住まい・生活支援が一体となった暮らしの基盤を、自治体ごとに作っていく試みです。

個人の暮らしのなかでも、ケアの視点は具体的に効きます。完璧な健康を目指すことに囚われず、不調・老い・弱さと共に生きる作法を学ぶ。家族や友人をケアすることを「負担」ではなく「相互性」として捉える(第71話と関連)。自分が将来ケアを必要とする側になることを前提に、関係を編む。「ケア」は弱者のためだけのものではなく、すべての人の暮らしの基盤なのです。

ケアの時代は、近代医療の成果を否定するものではありません。治療と予防の力を活かしながら、その上にケアの基盤を厚く積み上げていく。「治す医療」から「支える医療」へ、「医師中心」から「多職種・地域中心」へ、「病院中心」から「暮らしの場中心」へ――こうしたパラダイム転換が、ゆっくりと進行中です。私たち一人ひとりも、その担い手です。

DEEPER 学術的な観点で深めると

ケア論の現代的展開は、哲学・倫理学・看護学・社会学の交差点で進んでいます。哲学では、米国のキャロル・ギリガン『もう一つの声』(1982年、第71話と共通)、ジョーン・トロント(1993年)、ヴァージニア・ヘルド(2006年)が中心的著作です。看護学では米国のジーン・ワトソン(1979年)、英国のシシリー・ソンダース(第62話と関連)の緩和ケア哲学が基盤。日本では家族社会学・ケア研究の上野千鶴子(東京大学名誉教授、第25話・第71話と共通)、看護理論の薄井坦子、ケア哲学の品川哲彦(関西大学)、地域包括ケアシステムを推進する田中滋(埼玉県立大学)、医療社会学の佐藤純一(高知医科大学)らが多角的に研究を進めています。世界保健機関は2015年以降「人生の最終段階のケア(end-of-life care)」を世界の保健政策の課題として位置づけており、医療パラダイムの転換が国際的に進行中です。

SIGNAL 01

日本の地域包括ケアシステムは2014年から全国推進、約1,700自治体で取り組み(厚生労働省「地域包括ケア研究会」報告書)。

SIGNAL 02

世界の緩和ケア需要は人口の約75%に必要とされるが、現在実際に受けられているのは約14%(WHO 2018)。

SIGNAL 03

日本の在宅死亡率は2010年の約12%から2022年に約17%に上昇(厚生労働省「人口動態統計」)。「家で最期を」の希望が増加。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Tronto, J. C. (1993). Moral Boundaries. Routledge.ケアの政治哲学(第71話と共通)。
  • Held, V. (2006). The Ethics of Care. Oxford University Press.ケアの倫理の体系化。
  • Watson, J. (1979). Nursing: The Philosophy and Science of Caring. Little, Brown.看護のケア理論。
  • 上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』太田出版日本のケア研究(第71話と共通)。
  • 田中滋ほか(2014)『地域包括ケアシステム』中央法規出版地域包括ケアの理論と実践。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

ケアの時代が来るなら、私たちが「遊ぶ」という行為もまた、もっと真剣に位置づけ直す必要があるかもしれません。次回は、なぜ人はゲーム実況に時間を溶かすのかを、二次的経験の研究から辿ります。

NEXT EPISODE 第76話「ゲーム実況に、なぜ人は時間を溶かすのか」 公開を待つ →
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