PART IV ケアと遊 ・ 看護介護 #03
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介護は、する側もされる側も変容させる

― ケアの倫理が示す、依存と相互性のあいだ

Caring Transforms Both the Caregiver and the Cared

介護は「する側」が「される側」を支える一方向の関係だと、私たちはたいてい思ってきました。けれど、ケアの倫理が示すのは、ケアが双方を深く変容させる、相互的な経験だということです。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 人文学 / ケアの倫理・介護研究

高齢の親を介護する、病気のパートナーを支える、障害を持つ家族と暮らす――これらの経験を、私たちはたいてい「する側」が「される側」を支える一方向の関係として捉えがちです。介護する側は健康で能力があり、介護される側は依存的で受動的だ、と。けれど、ケアの倫理が示すのは、こうした単純な見方が事態を見えにくくしているということです。

政治学者ジョーン・トロント(第25話と共通)は1993年の著書(『Moral Boundaries』)で、ケアを「私たちが世界で生き、できるだけ良く生きるためにすべての行為」として広く定義しました。ケアの倫理は、自律した個人を中心にした近代の倫理学から、依存と相互性を中心にした倫理学へのパラダイム転換を提示しています。すべての人は誰かのケアを受けて生きており、また誰かのケアをしている――この事実から倫理を始めようとする立場です。

介護する側が経験する変容は深い。米国の精神科医ロバート・バトラーが1970年代に提示した「ライフレビュー(人生の振り返り)」は、終末期にある人と過ごすことが、関わる側の人生観・価値観を根本から問い直す機会になることを示しました。介護や看取りの経験を通じて、自分自身の人生で何を大切にしたいか、どんな関係を結びたいか、見え方が変わっていく。これは「副産物」ではなく、ケアの本質的な側面です。

介護される側もまた、独自の役割と経験を持っています。日本の医療人類学者・波平恵美子(お茶の水女子大学名誉教授)や、看取り研究の岡部健(仙台往診クリニック)らは、介護される人が「ただ受けるだけ」ではなく、家族や地域に「意味」「絆」「学び」を残す役割を果たしていることを指摘してきました。最期の時間を共にすることが、家族の関係を深め、次世代への継承を生む――これは介護が双方向的な経験である証拠です。

哲学者キャロル・ギリガンは『もう一つの声』(1982年)で、男性中心の正義の倫理に対して、女性が育んできた「ケアの倫理」を対置しました。ケアの倫理は、抽象的な原則ではなく、具体的な関係の中での応答性・配慮・責任を中心に据える。米コーネル大学のヴァージニア・ヘルドは『The Ethics of Care』(2006年)でこの視点を体系化しています。日本では介護研究の上野千鶴子(第25話と共通)、ケアの哲学の品川哲彦(関西大学)らがケアの倫理を発展させてきました。

日々の暮らしのなかで、ケアを「義務」「負担」だけで捉えるのではなく、「双方が変わっていく場」として位置づけ直すことが、ケアそのものの質と、自分自身の経験の質を変えていきます。介護される側にも、介護する側にも、それぞれの尊厳と意味があります。介護を一人で抱え込むのではなく、家族・地域・専門家との関係のなかで分かち合う――これは、ケアの倫理が示してきた、もっとも基本的な作法でもあるのです。

DEEPER 学術的な観点で深めると

ケアの倫理は、米心理学者キャロル・ギリガン『もう一つの声』(In a Different Voice, 1982年)が出発点。彼女は男性中心の正義の倫理(コールバーグの道徳発達理論)に対して、女性が育んできた応答性・配慮・関係性の倫理を対置しました。政治学者ジョーン・トロント(1993年)はケアを政治哲学の中心に位置づけ、米コーネル大学のヴァージニア・ヘルド(2006年)が体系化しました。米ハーバード大学のマーサ・ヌスバウム『正義のフロンティア』(2006年)はケアと社会的不正義の関係を分析。日本では家族社会学・ケア研究の上野千鶴子(東京大学名誉教授、第25話と共通)、政治哲学の岡野八代(同志社大学)、医療人類学の波平恵美子(お茶の水女子大学名誉教授)、ケアの哲学の品川哲彦(関西大学)らがケアの倫理を発展させてきました。介護研究では、慶應義塾大学の前田正子、医療人類学の道信良子(札幌医科大学)らが現代日本の介護現場を継続的に分析しています。

SIGNAL 01

日本の介護を担う家族介護者は約650万人、認知症介護は約400万人(厚生労働省「国民生活基礎調査2022」)。

SIGNAL 02

介護経験を持つ人の約60%が「人生観が変わった」と回答(厚生労働省介護者調査)、変容の主観的経験。

SIGNAL 03

介護離職は年間約10万人(総務省「就業構造基本調査2022」)。社会的支援の不足。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Gilligan, C. (1982). In a Different Voice. Harvard University Press.ケアの倫理の出発点。
  • Tronto, J. C. (1993). Moral Boundaries. Routledge.ケアの政治哲学。
  • Held, V. (2006). The Ethics of Care. Oxford University Press.ケアの倫理の体系化。
  • Nussbaum, M. C. (2006). Frontiers of Justice. Belknap Press.ケアと正義。
  • 上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』太田出版日本のケア研究。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

ケアが双方を変容させるなら、応援するという行為もまた、応援する側に何かを残しているはずです。次回は、応援が自分の身体に効くしくみを、応援の心理学から辿ります。

NEXT EPISODE 第72話「応援することが、自分の身体に効いていた」 公開を待つ →
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