PART IV ケアと遊 ・ 旅・観光 #03
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「歩く」だけで、脳のかたちが変わる

― 運動と認知の研究が示す、徒歩の効用

Just Walking Changes the Shape of the Brain

歩くことは、ただの移動手段ではなく、脳の構造そのものを編む活動でした。第34話の神経可塑性研究と並んで、ここ20年の運動神経科学が示してきた発見です。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 自然科学 / 運動神経科学

頭が詰まったとき、外を歩くと考えがほぐれる。アイデアが出ない仕事の合間に20分散歩すると、机に戻ったときに新しい角度が見える。「歩くと頭が動く」という素朴な経験を、私たちは日常的に持っています。けれど、これは比喩や気のせいではなく、神経科学的に実体のある現象であることが、ここ20年の研究で明らかになってきました。

米イリノイ大学のアーサー・クレーマー(第34話と関連)は、有酸素運動と脳の関係を継続的に研究してきました。彼が2011年にPNASに発表した研究では、55-80歳の被験者120人に1年間の有酸素運動プログラムに参加してもらった結果、海馬の体積が約2%増加し、記憶テストの成績が向上したことを示しました。同年代の対照群では海馬は約1.4%縮小していたため、運動は単に老化を防ぐだけでなく、若返らせる効果を持つ可能性があるのです。

歩くことが脳に及ぼす効果は、複数の経路から説明されます。第一は、有酸素運動による海馬への血流増加と、神経新生(neurogenesis)の促進。第二は、運動中に分泌される脳由来神経栄養因子(BDNF)が、神経細胞の生存・成長・新しい接続形成を促すこと。米ハーバード大学のジョン・レイティは『Spark』(2008年)で、BDNFを「脳の肥料」と呼び、運動が認知と気分に与える広範な効果を一般に伝えました。

徒歩には、ただの運動とは違う独自の効果もあります。米スタンフォード大学のマリリー・オペッツォとダニエル・シュヴァルツが2014年に発表した研究では、座って思考する条件と、歩きながら思考する条件で創造性課題を比較したところ、歩いている群が約60%多くの創造的アイデアを出すことが示されました。歩行が創造的思考を促すこと――これは、第31話で取り上げた「適度な雑音と創造性」の知見とも整合します。

日々の暮らしのなかで、これは具体的に応用できます。1日30分以上の歩行を習慣化する。電車を一駅手前で降りる。エレベーターを階段に変える。問題に詰まったら散歩に出る。会議は座らずに歩きながら(walking meeting)。Steve JobsやMark Zuckerbergが歩きながらの会議を好んだのは、思考の質に確かな違いがあるからです。

徒歩は、最古の人類の移動様式であり、最も身近な健康習慣であり、認知のチューニング装置でもあります。今日、歩く時間を5分でも増やすことは、自分の脳と身体への、最も基礎的な投資なのです。

DEEPER 学術的な観点で深めると

運動と脳の関係の研究は、米イリノイ大学のアーサー・クレーマー、米ピッツバーグ大学のカーク・エリクソンが中心人物です。彼らの2011年論文は、運動が中高年の海馬体積を実際に増加させることを示した決定的研究です。米ハーバード大学のジョン・レイティ(2008年)は運動と脳のテーマを一般に広めました。BDNF研究では米ロックフェラー大学のブルース・マキューエン、米ソーク研究所のラスティ・ゲージらが基礎を築き、運動による神経新生のメカニズムを解明。米スタンフォード大学のマリリー・オペッツォとダニエル・シュヴァルツの「歩行と創造性」研究は具体的な応用研究です。日本では国立長寿医療研究センターの島田裕之が高齢者の運動と認知機能、筑波大学の征矢英昭が運動神経科学の研究を主導しています。「歩く」は、単なる移動から、認知科学・公衆衛生・神経生物学の中心的研究対象へと位置づけ直されつつあります。

SIGNAL 01

1年間の有酸素運動プログラムで、55-80歳の海馬体積が約2%増加(Erickson, K. I. et al. 2011, PNAS, 108(7): 3017-3022)。

SIGNAL 02

歩きながらの思考は、座って思考する場合より創造的アイデアの数が約60%増加(Oppezzo, M. & Schwartz, D. L. 2014, J Exp Psychol, 40(4): 1142-1152)。

SIGNAL 03

日本人の1日の歩数は1990年の約8,000歩から2022年に約6,000歩に減少(厚生労働省「国民健康・栄養調査2022」)。歩行不足が常態化。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Erickson, K. I. et al. (2011). "Exercise training increases size of hippocampus and improves memory." PNAS, 108(7): 3017-3022.運動と海馬体積。
  • Ratey, J. J. (2008). Spark. Little, Brown.運動と脳の総合書。
  • Oppezzo, M. & Schwartz, D. L. (2014). "Give your ideas some legs." J Exp Psychol, 40(4): 1142-1152.歩行と創造性。
  • Cotman, C. W. & Berchtold, N. C. (2002). "Exercise: a behavioral intervention to enhance brain health and plasticity." Trends Neurosci, 25(6): 295-301.運動と脳可塑性。
  • 島田裕之(2018)『フレイルの予防とリハビリテーション』医歯薬出版日本の高齢者運動研究。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

歩くことが脳を変えるなら、人類が長く繰り返してきた集合的な歩行――祭りの行列、行進、お参り――もまた、独自の身体的・社会的効果を持っているはずです。次回は、祭りのあとの脱力に隠された意味を、コムニタス研究から辿ります。

NEXT EPISODE 第70話「祭りのあとの脱力には、意味があった」 公開を待つ →
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