旅から帰ってくると、出発前と少しだけ違う自分がいる気がします。風景の記憶、出会った人の声、空気の匂い、迷子になった瞬間の心細さ――それらが日々の自分の輪郭を、静かにずらしていきます。1週間の旅の出来事のほうが、その前の3か月の日常よりも、なぜか鮮明に思い出せる。「気分転換」という言葉では捉えきれないこの変化に、ここ20年の脳科学はようやく言葉を与えはじめています。
旅は、ただの場所の移動ではなく、記憶そのものを編集する装置だったのです。新しい場所に身を置くと、脳は今までにない地図を作りはじめます。その地図のなかで起きた出来事は、日常のルーティンのなかで起きたことよりずっと鮮やかに、深いところに保存される。だから旅の数日が、日常の数か月よりも記憶の手応えとして残るのです。
もっと興味深いことに、旅から帰った夜、脳は休んでいるあいだに、その日通った場所の経路を高速で「再生」していることがわかってきました。無意識のうちに、私たちは旅をもう一度たどり直し、記憶を編集しているのです。だから旅から帰った直後ではなく、数日経ってから、旅の経験が自分の何かを変えていることに気づくことがあります。脳は、起きていない時間にも、せっせと旅の編集作業を続けているのです。
旅は遠くに行くことだけを意味しません。新しい場所での経験が脳に書き込みやすいのは、新規性に対して海馬が活性化するからです。同じ仕組みを、毎日のなかにも埋め込むことができます。いつもと違う道を歩く、入ったことのないカフェに入る、知らない街でバスに乗る、地図を見ずに迷子になることを許す――こうした小さな新規性が、その日の経験を脳にいつもより深く書き込ませます。
逆に言えば、毎日が同じパターンの繰り返しになると、脳の記憶は薄くなっていきます。「年を取ると時間が早く過ぎる」と感じるのは、新規性が減って、脳が新しい記憶を作る機会が少なくなっているからだと、神経科学者たちは説明します。新規性は、若さの素材であり、記憶の素材であり、暮らしの手応えの素材でもあるのです。
旅は逃避ではなく、編集の時間です。新しい場所に立つたびに、私たちの内側の地図と物語は、少しずつ書き換えられていきます。遠くに行けない日々のなかでも、徒歩圏のなかに「未踏の道」はたくさんあるはずです。
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空間と記憶の研究の転機は1971年、英国ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのジョン・オキーフが、ラットの海馬で「特定の場所に来たときだけ発火する細胞」を発見したことに始まります。場所細胞(place cell)と呼ばれるこの神経細胞は、動物が空間のどこにいるかを脳が把握するための基礎の一つです。続いて2005年、ノルウェー科学技術大学のマイブリット・モーザーとエドバルド・モーザーは、海馬に隣接する内側嗅内皮質に「グリッド細胞」――空間を六角形の格子状に分割する細胞――を発見し、3人は2014年にノーベル医学・生理学賞を受賞します。海馬は単なる空間地図ではなく、記憶そのものの形成にも欠かせない場所だったことが、1957年のH.M.患者の症例研究以降明らかになり、「いつ・どこで・何があったか」というエピソード記憶の中核装置として理解されてきました。日本では、米マサチューセッツ工科大学の利根川進が特定の記憶を担う「エングラム細胞」を光遺伝学で同定する画期的な研究を進めており、京都大学の井ノ口馨が記憶の細胞集団のメカニズムを追っています。海馬の活動は休んでいるあいだに、その日通った経路を高速で「再生」(リプレイ)していることもわかってきており、これが記憶の固定化に欠かせない現象であることが2010年代以降の研究で示されています。
海馬は休息中・睡眠中に当日の経路を最大20倍速で「再生」している(Foster & Wilson 2006, Nature, 440: 680-683)。記憶定着のメカニズム。
ロンドンのタクシー運転手は、街の地図を覚える過程で海馬後部の灰白質体積が経験年数に比例して増加(Maguire et al. 2000, PNAS, 97(8): 4398-4403)。
新規性のある場所では、海馬のシータ波・ガンマ波カップリングが約30%強化され、記憶定着が促進される(Lisman & Jensen 2013, Neuron, 77(6): 1002-1016)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- O'Keefe, J. & Dostrovsky, J. (1971). "The hippocampus as a spatial map." Brain Research, 34(1): 171-175.DOI: 10.1016/0006-8993(71)90358-1 / 場所細胞の発見論文。
- Hafting, T., Fyhn, M., Molden, S., Moser, M.-B., & Moser, E. I. (2005). "Microstructure of a spatial map in the entorhinal cortex." Nature, 436(7052): 801-806.DOI: 10.1038/nature03721 / グリッド細胞の発見。
- Scoville, W. B. & Milner, B. (1957). "Loss of recent memory after bilateral hippocampal lesions." J Neurol Neurosurg Psychiatry, 20(1): 11-21.海馬と記憶を結ぶ古典的症例研究。
- Liu, X., ... Tonegawa, S. (2012). "Optogenetic stimulation of a hippocampal engram activates fear memory recall." Nature, 484(7394): 381-385.DOI: 10.1038/nature11028 / 記憶エングラム細胞の同定。
- Eichenbaum, H. (2017). "On the integration of space, time, and memory." Neuron, 95(5): 1007-1018.DOI: 10.1016/j.neuron.2017.06.036 / 空間と記憶の統合的総説。
- Buzsáki, G. (2019). The Brain from Inside Out. Oxford UP.記憶と神経活動の現代的総合。
旅が記憶を編集する装置なら、私たちが日常的に出会う「美しい風景」や「美しい音」もまた、脳に何かを編み込んでいるのかもしれません。次回は、「美しい」と感じるしくみを解像する、神経美学の系譜を辿ります。
