泣いている赤ちゃんを抱きしめると、なぜか自分まで落ち着く。「ぎゅっとする」という単純な行為は、子どもにとっての慰め以上の意味を持っています。皮膚と皮膚が触れ合う時間は、子どもの将来の脳と心の安定を、思っているより長い時間軸で支えていることが、ここ40年の接触科学の研究で示されてきました。
皮膚接触の研究は、1958年の米心理学者ハリー・ハーロウの古典的なサル実験に遡ります。彼は、生まれたばかりのアカゲザルに「布の母」と「針金の母(ミルク付き)」を与え、子ザルが圧倒的に布の母にしがみつくことを示しました。栄養より「触れる温かさ」を求める――この発見は、当時の行動主義心理学の前提を覆し、愛着研究の出発点となりました(第42話と関連)。
人間の研究では、早産児に対する「カンガルーケア(kangaroo mother care)」が決定的な証拠を提供しました。コロンビアのエドガル・レイらが1979年に開発したこの方法は、早産児を母親(または父親)の素肌に直接抱っこする手法です。世界保健機関は2003年にこれを推奨し、その後の臨床試験は、カンガルーケアを受けた早産児が、保育器のみで育った児より、生存率・認知発達・愛着安定性が有意に高いことを示しました。スウェーデンのキャースティン・ウーヴナス=モバーグらは、この効果がオキシトシンを介した母子双方の生理応答にあることを実証しました。
驚くべきは、効果の持続期間です。コロンビアの早産児を20年間追跡した縦断研究(Charpak et al. 2017, Pediatrics)では、カンガルーケアを受けた群が、保育器群と比べて、20歳時点で攻撃性・多動・社会的問題行動が有意に少なく、認知能力・教育達成度が高いことが示されました。生後数週間の皮膚接触の差が、20年後の人生指標に残っていたのです。
日々の育児への含意は具体的です。抱っこの時間、撫でる時間、寝る前の身体的な触れ合いは、「甘やかし」ではなく、神経生物学的に重要な投資です。スマートフォンを見ながらの抱っこより、目を合わせ、声をかけ、肌を密着させる抱っこのほうが、効果が大きいことも示されています。父親や祖父母、保育者を含む複数の大人による抱っこも、子どもの愛着形成を多元的に支えます。
大人になった私たちの暮らしのなかでも、皮膚接触は重要です。パートナーとのハグ、家族とのちょっとした触れ合い、マッサージ、ペットとのスキンシップ――これらはすべて、オキシトシンを介して心と身体を整えています。コロナ禍以降、「触れる」機会が減った社会のなかで、意識的に触れ合いの時間を持つことの意味が、改めて見直されています。
DEEPER 学術的な観点で深めると ▾
皮膚接触と発達の研究は、米心理学者ハリー・ハーロウのサル実験が出発点です。早産児のカンガルーケアは、コロンビアのエドガル・レイとヘクトル・マルティネスが1979年にボゴタで開発し、世界保健機関が2003年に正式推奨しました(WHO 2003, Kangaroo Mother Care: A Practical Guide)。米テキサス大学ダラス校のティファニー・フィールドはタッチ・リサーチ・インスティテュートを設立し、皮膚接触の効果を体系化。スウェーデンのキャースティン・ウーヴナス=モバーグはオキシトシン研究で人と動物の絆を解像してきました(第49話と関連)。コロンビアのナタリー・シャルパクらは早産児を成人まで追跡する世界最長のカンガルーケア縦断研究を継続中。日本では小児神経学者の榊原洋一(お茶の水女子大学名誉教授)、看護学者の松永佳子らが日本における新生児ケアと愛着発達を研究してきました。皮膚接触は、文化的な「優しさ」の問題から、神経生物学・公衆衛生・発達科学の対象へと広がっています。
カンガルーケアを受けた早産児は、20年後に認知能力・教育達成度が有意に高く、攻撃性・多動が低い(Charpak, N. et al. 2017, Pediatrics, 139(1): e20162063)。
WHOはカンガルーケアを早産児ケアの標準として推奨(WHO 2003, 2022年改訂)。世界の早産児死亡率削減に貢献。
母子のオキシトシン濃度は皮膚接触で有意に上昇、双方の絆形成に関与(Feldman, R. et al. 2007, Biological Psychiatry, 61(2): 218-226)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Harlow, H. F. (1958). "The Nature of Love." American Psychologist, 13(12): 673-685.愛着研究の古典実験。
- Charpak, N. et al. (2017). "Twenty-year follow-up of kangaroo mother care versus traditional care." Pediatrics, 139(1): e20162063.DOI: 10.1542/peds.2016-2063 / カンガルーケア20年追跡。
- Field, T. (2014). Touch (2nd ed.). MIT Press.接触科学の総合書。
- WHO (2003). Kangaroo Mother Care: A Practical Guide. World Health Organization.WHOカンガルーケアガイドライン。
- 榊原洋一(2007)『子どもの脳の発達 臨界期・敏感期』講談社現代新書日本の発達神経科学。
抱っこの時間が長期に効くなら、家族の中の「祖父母」――第三の保育者――の関わりもまた、孫の発達に独自の効果を持っているはずです。次回は、世代間関係の研究から、祖父母の役割を辿ります。
