満員電車に揺られる朝の30分、徒歩でオフィスに向かう15分、自転車で坂を上る20分、車のなかでラジオを聞く1時間――通勤時間を、私たちはたいてい「奪われている時間」「もし在宅勤務だったらこの時間を別のことに使えるのに」と感じています。経済学者の試算では、東京圏の通勤時間損失は年間数兆円規模にのぼると言われます。
けれど、近年の認知研究は別の姿を示しはじめています。通勤の移動時間は、家と仕事という二つの異なる役割の間にある「過渡空間」であり、心理的な切り替えを支える機能を持っているのです。米ハーバード・ビジネススクールのジョン・ヤチンモビッチらは2017年の研究で、通勤中に「これからの仕事の段取りを心のなかでリハーサルする」習慣を持つ人ほど、職場到着時の集中力が高く、家庭でのストレスが少ないことを示しました。通勤は単なる移動ではなく、ロールトランジション(役割の切り替え)の儀礼空間として働いていたのです。
もう一つ重要なのは、適度な身体運動と認知の関係です。徒歩や自転車での通勤は、有酸素運動として脳に酸素を供給し、海馬の機能を高めることが繰り返し示されています。米イリノイ大学のアーサー・クレーマーらの研究は、定期的な軽い運動が認知機能と気分に与える効果を長期的に追っており、通勤の身体運動が「無料の運動時間」として機能していることを示唆しています。コロナ禍の在宅勤務で身体活動量が下がった人が、通勤を取り戻して気分が安定したという報告は、この機構と整合します。
一方で、長すぎる通勤や満員電車のような高ストレスの通勤は、明らかにマイナスです。スウェーデンのウメオ大学の研究では、片道45分以上の自動車通勤を続ける人は、離婚率・うつ病有病率・心血管疾患リスクが有意に高いことが報告されています。通勤の質が問題で、通勤そのものが悪いのではない――この区別が大切です。
日々の通勤を、もう一度デザインしなおしてみる価値があります。電車のなかでスマートフォンを見続ける代わりに、本を読む、ポッドキャストを聞く、その日の仕事の段取りを考える、何も考えずに窓の外を見る。徒歩で通勤できる距離なら、速度を一定に保って歩く。自転車を選ぶ。こうした小さな設計が、通勤時間を「奪われる時間」から「整える時間」に変えていきます。
通勤は、家と仕事のあいだに置かれた緩衝空間です。短すぎても長すぎてもなく、自分のリズムに合った通勤の時間を、暮らしの一部として位置づけ直すこと――それが、はたらくことそのものの質を、静かに変えていくはずです。
DEEPER 学術的な観点で深めると ▾
通勤と認知・健康の研究は、近年急速に進んでいます。米ハーバード・ビジネススクールのジョン・ヤチンモビッチらは2017年、通勤中の心理的役割切り替え(ロールトランジション)が職場パフォーマンスと家庭生活の質を同時に向上させることを示しました。スウェーデンのウメオ大学のエリック・サンドウは、長距離通勤と離婚リスク・うつ病有病率の関係を追跡し、片道45分超の通勤が顕著に有害であることを示しました。米イリノイ大学のアーサー・クレーマーは身体活動と認知機能の関係を長期的に研究してきた第一人者で、徒歩通勤や自転車通勤が脳の機能を支えることを実証しています。日本では国土交通省・東京大学の交通研究室が東京圏通勤の経済・社会・健康への影響を継続的に評価しています。米コーネル大学のリチャード・ライトは「通勤は最も嫌われる日常活動」だが、設計次第で意味のある時間に変わりうると論じています。通勤は、現代の都市生活の不可避の構造的要素として、認知科学・公衆衛生・経済学・都市計画の交差点で再評価されつつあります。
片道45分以上の自動車通勤を続ける人は、離婚リスクが約40%上昇(Sandow, E. 2014, Urban Studies, 51(3): 526-543)。
日本の東京圏の平均通勤時間は片道約47分、往復約94分(総務省「社会生活基本調査2021」)。OECD加盟国で最長クラス。
徒歩・自転車通勤者はうつ症状リスクが約20-25%低い(Martin, A. et al. 2014, Prev Med, 69: 296-303)。身体活動を伴う通勤の効用。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Jachimowicz, J. M. et al. (2017). "Commuting as Role Transitions." Administrative Science Quarterly, 62(3): 489-525.通勤と役割切り替えの研究。
- Sandow, E. (2014). "Til work do us part: The social fallacy of long-distance commuting." Urban Studies, 51(3): 526-543.長距離通勤の社会的影響。
- Martin, A. et al. (2014). "Does active commuting improve psychological wellbeing?" Preventive Medicine, 69: 296-303.徒歩・自転車通勤と精神健康。
- Kramer, A. F. et al. (2006). "Exercise, cognition, and the aging brain." J Appl Physiol, 101(4): 1237-1242.運動と認知機能。
- 総務省統計局(2022)「社会生活基本調査2021」日本の通勤時間統計。
通勤が役割の切り替えなら、職場で「やる気が出る」あの瞬間にも、同じくらい具体的なしくみがあるはずです。次回は、やる気を生む脳の場所を、モチベーションの神経科学から辿ります。
