PART II 暮らしの基盤 ・ 家事 #01
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家事は労働ではなく、家庭の生態系の整備工事だった

― フェミニスト経済学とケアの倫理が示す、見えない労働の意味

Housework Is Not Labor, but Maintenance of a Home's Ecosystem

皿洗い、洗濯、掃除、食事の準備、買い物、子どもの宿題の確認――家事は毎日繰り返されているのに、家計簿にもGDPにも出てきません。「やって当たり前」「労働ではない」とされてきたこの作業を、ここ40年のフェミニスト経済学とケアの倫理は、社会の見えない基盤として位置づけ直してきました。

西村 勇也(NPO法人ミラツク 代表理事) 2026年5月8日 推定読了 約8分 学術領域: 社会科学 / フェミニスト経済学・ケアの倫理

皿洗い、洗濯、掃除、食事の準備、買い物の段取り、子どもの宿題の確認、家族のスケジュール管理――家事と呼ばれる作業は、毎日繰り返されているのに、家計簿にもGDPにも出てきません。「やって当たり前」「お金を生まないから労働ではない」とされてきたこの大量の作業時間が、暮らしの基盤を静かに支えていることに、私たちはたいてい気づかないまま生きています。

けれど、家事を一週間やめてみるとどうなるかを想像してみてください。冷蔵庫は空になり、洗濯物の山は崩れ、ゴミは溜まり、家族の予定は混乱し、誰もまともに食事を作れません。家事は単なる作業ではなく、家庭という生態系を成り立たせるための「整備工事」だったのです。建物のメンテナンスがされなくなれば、外見が立派でも数年で住めなくなるのと同じで、家事という見えない整備が止まれば、暮らしは数日で崩れていきます。

この見えない労働を社会の基盤として位置づけ直したのが、ここ40年のフェミニスト経済学です。1988年、ニュージーランドの経済学者マリリン・ウェアリングは『カウンターしないなら数えない(If Women Counted)』のなかで、世界のGDP統計が女性の家事・育児・介護の時間を「ゼロ価値」として計算していることを暴き出しました。世界全体で年間に行われる無償家事労働の時間は、貨幣換算すれば世界経済の中核と並ぶ規模です。それが「労働ではない」とされることで、誰の貢献として見えなくなっていたのか――この問いから、家事の意味の捉え直しが始まりました。

家事は、量だけの問題ではありません。誰かが疲れていれば気づく、子どもの様子が違えば把握する、家族の予定を頭のなかで調整する――こうした目に見えない調整作業を、米社会学者アーリー・ホクシールドは「感情労働」「メンタルロード」と呼びました。家事のうち、肉体的な部分よりむしろ、頭のなかで常に走っている調整プロセスが、しばしば最も消耗の大きい部分です。これも、家計簿には出てきません。

家事を「整備工事」として捉え直すと、いくつかの作法が見えてきます。一つは、見えない作業を見える化することです。家事リストを作って共有するだけで、誰がどれだけ担っているかが具体化します。二つ目は、家事の時間を「低い価値の作業時間」ではなく「家の生態系を保つ時間」として位置づけ直すことです。マインドフルに皿を洗う、丁寧に床を拭く――こうした所作のなかに、自分と家との対話の時間があります。三つ目は、家事を完璧主義から解放することです。整備は完璧ではなく持続性が大切で、6割の質で続けるほうが、10割を目指して途切れるよりずっと家を守ります。

家事は、暮らしの裏方の作業ではなく、暮らしを暮らしたらしめている本体の一部です。見えない労働に名前を与えなおすことから、家庭の関係も、自分の時間の使い方も、少しずつ違って見えてくるはずです。

DEEPER 学術的な観点で深めると

フェミニスト経済学による家事の再評価は、1980年代から本格化しました。ニュージーランドの経済学者マリリン・ウェアリングは1988年の著書で、国民経済計算(SNA)が無償家事労働を「価値ゼロ」として除外する構造を批判し、世界銀行・OECDの統計改革に影響を与えました。米カリフォルニア大学バークレー校の社会学者アーリー・ホクシールドは1989年の著書で、共働き家庭の女性が家庭でも「第二のシフト」を負っている現実を実証。1990年、政治学者ジョーン・トロントはでケアの倫理を体系化し、ケア労働を社会の中心に据える視点を提示しました。日本では社会学者の上野千鶴子(東京大学)が1990年の著書『家父長制と資本制』で、家事労働の搾取構造を理論化。経済学者の大沢真理(東京大学)は社会政策の観点から、政治学者の岡野八代(同志社大学)はケアの倫理の日本における展開を進めてきました。OECDは2011年以降、加盟国の無償家事労働時間を継続的に統計化しており、家事は社会経済の構造的構成要素として国際的に認識されはじめています。

SIGNAL 01

日本人の無償家事労働は年間あたりGDPの約2〜3割に相当(内閣府男女共同参画局 2018年推計、ISTAT/OECD準拠)。

SIGNAL 02

世界全体で女性が男性の3倍の無償家事労働を担っている(ILO 2018, "Care work and care jobs")。日本では男性の約5倍と先進国で最大の差。

SIGNAL 03

家事を「労働」として算入すると、世界経済の規模は約11兆ドル増加するという推計(McKinsey Global Institute 2015)。

KEY REFERENCE この回の典拠
  • Waring, M. (1988). If Women Counted. Harper & Row.フェミニスト経済学の基礎文献。GDPの構造批判。
  • Hochschild, A. R. (1989). The Second Shift. Viking.感情労働・メンタルロードの概念。
  • Tronto, J. C. (1993). Moral Boundaries. Routledge.ケアの倫理の体系化。
  • 上野千鶴子(1990)『家父長制と資本制』岩波書店日本における家事労働論の代表作。
  • OECD (2024). "Time Use Database." OECD Family Database.加盟国の無償家事労働時間の統計。
QUESTION FOR NEXT — 次号への問い

家事が家庭の生態系の整備工事なら、私たちが「働く」と呼んでいる外での労働もまた、別の角度から捉え直せるかもしれません。すでに公開されている第32話「集中力は意志ではなく、設計の問題だった」と合わせて、はたらくことの新しい見方を考えていきます。

NEXT EPISODE 第26話「睡眠負債は、感情の調整能力を低下させる」 公開を待つ →
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