夏の夕方、ふと通りかかった家の前で、何かを焼く匂いがしてくる。その瞬間、何十年も前の祖母の家の縁側、夏の終わりの夕焼け、まだ小学生だった自分の感覚が、まるで昨日のことのように甦ってくる――こうした経験は、誰にでも一度はあるはずです。フランスの作家マルセル・プルーストが小説『失われた時を求めて』(1913年)で、紅茶に浸したマドレーヌの香りから幼少期の記憶が一気に甦る場面を描いたことから、この現象は「プルースト効果」と呼ばれてきました。
不思議なのは、視覚や聴覚で呼び起こされる記憶とは、香りが呼ぶ記憶の質感が違うことです。匂いで甦る記憶は、より古く、より感情的で、より身体的です。「思い出した」というより「そこに戻った」という感覚に近い。なぜ嗅覚だけが、私たちの記憶と感情にこれほど深く結びついているのでしょうか。
神経解剖学が示す答えは、香りの情報が脳のなかを通る経路が、他の感覚とまったく違うことに関係します。視覚・聴覚・触覚の情報は、いったん視床という中継地を経由してから大脳皮質に届きます。けれど嗅覚だけは、視床を介さず、嗅球から直接、感情を司る扁桃体と、記憶を司る海馬に届きます。この特別な経路のおかげで、香りは感情と記憶に「直結」しているのです。
米ノースウェスタン大学のレイチェル・ハーツらの研究は、香りで呼び起こされる自伝的記憶が、視覚や言語で呼び起こされるものより、感情の強度が高く、より古い時期の記憶であることを実験的に示してきました。匂いに紐づいた記憶は、最も古い時期――幼少期の5-10歳――に集中する傾向があり、これは「プルースト効果のピーク」と呼ばれています。私たちの最も深い感情記憶は、子どもの頃の香りのなかに保存されているのです。
この知見は、暮らしの設計にも応用できます。寝室にラベンダー、書斎にコーヒーやヒノキ、リビングに季節の花――特定の香りを特定の場所と結びつけることで、その場所に入っただけで適切な気分のモードに切り替わる仕組みを作れます。逆に、過去の辛い記憶と紐づいた香りを意識的に避けることも、暮らしの整理の一部になります。
今日の暮らしのなかで、自分が好きな香り、安心する香りを一つ思い浮かべてみる。それは、自分の幼少期や、忘れていた大切な時間と、地下水脈のようにつながっているかもしれません。香りは、空気のなかに漂う、もう一つの自分の歴史なのです。
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嗅覚記憶の神経科学は、20世紀後半に大きく進展しました。米コロンビア大学のリチャード・アクセルとフレッド・ハッチンソン癌研究センターのリンダ・バックは、嗅覚受容体の遺伝子ファミリーを発見し、2004年にノーベル医学・生理学賞を受賞しました。米ノースウェスタン大学のレイチェル・ハーツは1990年代から、嗅覚で誘発される記憶が他の感覚で誘発される記憶より感情的に強いことを実験で示してきました。米ハーバード大学のジョン・マクギャンは2015年、ヒトの嗅覚が長く「鈍い」と思われてきた認識を覆し、ヒトもイヌに匹敵する嗅覚識別能力を持つことを示しました(Science)。日本では京都大学の小早川令子・小早川高(現・関西医科大学)が嗅覚の神経回路を、東京大学の坂野仁が嗅覚地図形成の研究を、それぞれ深めてきました。プルースト効果は単なる文学的描写ではなく、嗅覚系の特殊な解剖学的構造(視床を介さない直接経路)から生まれる、神経科学的に説明可能な現象です。
香りで呼び起こされる自伝的記憶は5-10歳の時期に集中する(プルースト効果のピーク)(Willander, J. & Larsson, M. 2006, Psychon Bull Rev, 13(2): 240-244)。
嗅覚情報は視床を介さず、扁桃体と海馬に直接届く唯一の感覚(神経解剖学的事実、Gottfried 2010, Annu Rev Psychol)。
ヒトの嗅覚は約1兆種類のにおいを識別できるとされる推定もある(Bushdid, C. et al. 2014, Science, 343: 1370-1372、議論あり)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Herz, R. S. (2004). "A Naturalistic Analysis of Autobiographical Memories Triggered by Olfactory Versus Visual Cues." Chemical Senses, 29(3): 217-224.嗅覚記憶の特殊性。
- Willander, J. & Larsson, M. (2006). "Smell your way back to childhood." Psychon Bull Rev, 13(2): 240-244.DOI: 10.3758/BF03193837 / プルースト効果のピーク。
- McGann, J. P. (2017). "Poor human olfaction is a 19th-century myth." Science, 356(6338): eaam7263.DOI: 10.1126/science.aam7263 / ヒトの嗅覚の再評価。
- Buck, L. & Axel, R. (1991). "A novel multigene family may encode odorant receptors." Cell, 65(1): 175-187.嗅覚受容体発見(2004年ノーベル賞)。
- 坂野仁(2015)『嗅覚の神秘』東京大学出版会日本語による嗅覚研究の概説。
香りが記憶を呼ぶなら、家の「玄関」――香りも、光も、音も切り替わる場所――もまた、私たちに何かを編んでいるはずです。次回は、玄関のかたちと家族の関係を、閾の人類学から辿ります。
