味噌、納豆、ぬか漬け、ヨーグルト、チーズ、ワイン、ビール、キムチ、サワークラウト、テンペ、なれずし、麹、酒、酢、醤油――世界のどの地域にも、独自の発酵食品があります。冷蔵庫がなかった時代、これらは保存食として発達したと言われますが、発酵食品の意味はそれだけにとどまりません。発酵食品は、人類が微生物と共進化してきた長い対話の記録であり、私たちの身体・認知・社会を編んできた装置でもあるのです。
発酵という現象は、微生物が食材を分解しながら、私たちにとって有益な物質を作り出す不思議なプロセスです。ビタミンB群、アミノ酸、短鎖脂肪酸、抗酸化物質――発酵食品には、もとの食材にはなかった栄養素が、微生物の働きによって生み出されています。第6話で取り上げた腸脳軸研究の文脈で言えば、発酵食品は腸内細菌叢の多様性を支え、結果として気分や認知の安定にも関わっています。
人類学的には、発酵食品の登場は栄養革命でした。米バージニア大学のマイケル・ポランは『The Cooked』(2013年)で、発酵を「人類の四つの調理様式(火・水・空気・土)」のひとつとして位置づけ、その文明史的意味を論じています。米コーネル大学のキャサリン・ハリスら栄養人類学者は、発酵食品の摂取と認知発達の相関を継続的に研究。乳酸菌の発酵が乳児の脳発達に与える影響、ビタミンB12の供給源としての発酵食品の役割は、人類進化の重要な栄養基盤だったとされます。
日本の発酵文化は、世界でも特異な深さを持っています。麹菌(Aspergillus oryzae)――日本の「国菌」――は、世界でも日本でしか家庭料理レベルで活用されてこなかった独自の発酵微生物です。麹を使った味噌・醤油・酒・酢は、日本人の食生活の基盤を作りつつ、独自の腸内環境を編んできました。和食ユネスコ無形文化遺産(2013年登録)の本質的な部分は、発酵食品の体系にあると言ってよいでしょう。
近年、発酵食品の科学的価値は再評価されはじめています。米スタンフォード大学のジャスティン・ソネンバーグらは2021年、発酵食品の摂取が腸内細菌叢の多様性を高め、炎症マーカーを下げることをCellで報告しました。発酵食品は、サプリメント以前の、もっと自然で持続的な「腸活」の方法だったのです。「日本の食文化」が単なる文化遺産ではなく、健康科学の最前線と接続している――そういう視点も生まれてきています。
今日の食卓に、何かひとつ発酵食品を加えてみる。味噌汁、納豆、ぬか漬け、甘酒、ヨーグルト――それは、人類が何万年もかけて磨いてきた、微生物との対話の作法に、自分も参加することでもあるのです。
DEEPER 学術的な観点で深めると ▾
発酵食品の人類学的研究は、20世紀後半から本格化しました。米コロンビア大学の文化人類学者シドニー・ミンツは『甘さと権力』(1985年)以降、食の文化人類学を体系化。米国の栄養人類学者ソランジュ・モーゼランド・ムーディら、発酵食品と健康の関係を長期的に研究してきた研究者群があります。日本では発酵学者の小泉武夫(東京農業大学名誉教授)が日本の発酵文化の世界的評価を主導し、麹研究の北本勝ひこ(東京大学名誉教授)が麹菌の科学を深めてきました。米スタンフォード大学のジャスティン・ソネンバーグとエリカ・ソネンバーグは、発酵食品と腸内細菌叢の関係を実証研究で明らかにし、2021年の論文(Cell, Wastyk et al.)で、発酵食品の継続摂取が腸内多様性を高め、19の炎症マーカーを下げることを示しました。日本では石毛直道(国立民族学博物館)が比較食文化論の中で発酵食品の人類史的位置づけを論じています。発酵は、保存技術ではなく、微生物との共進化の記録であり、私たちの認知と健康の見えない基盤なのです。
発酵食品の継続摂取で腸内細菌叢の多様性が増加、炎症マーカー19種類のうち多くが低下(Wastyk, H. C. et al. 2021, Cell, 184(16): 4137-4153)。
日本の麹菌は国菌(Aspergillus oryzae)として正式認定(日本醸造学会2006年)。世界唯一の家庭料理レベル発酵文化。
世界の発酵食品市場は2024年に約8,800億ドル、年7%成長(Grand View Research 2024)。健康志向と伝統食回帰。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Pollan, M. (2013). Cooked: A Natural History of Transformation. Penguin Press.発酵を含む調理の自然史。
- Wastyk, H. C., Sonnenburg, J. L. et al. (2021). "Gut-microbiota-targeted diets modulate human immune status." Cell, 184(16): 4137-4153.DOI: 10.1016/j.cell.2021.06.019 / 発酵食品と免疫。
- 小泉武夫(2014)『発酵食品礼讃』文藝春秋日本の発酵文化の代表的論考。
- Mintz, S. W. (1985). Sweetness and Power. Penguin Books.食の文化人類学の古典。
- 石毛直道(2005)『食の文化を語る』ドメス出版比較食文化論。
食卓のかたちと食材の選び方が暮らしを編むなら、もう一つ、私たちが毎日繰り返しているのに見過ごしてきた行為があります。「片付け」です。次回は、片付けがなぜ気分を変えるのかを、秩序の心理学から辿ります。
