朝、なんとなく気分が重い日があります。理由はわからない、ただ心がうまく動かない。前夜の食事を思い出してみると、外食で揚げ物が続いた、糖質が多かった、お酒を少し飲み過ぎた、夜遅くにラーメンを食べた――心当たりがないわけではない。けれど私たちは、こうした感覚をたいてい「心の問題」「気分の問題」として処理してきました。気合いを入れる、気分転換をする、休む。お腹のことが「気分」と関係しているという発想は、医療の現場でさえ、長いあいだ脇に置かれていたのです。
腸と脳がつながっている感覚は、それほど新しいものではありません。古代ギリシャのヒポクラテスは「すべての病は腸から始まる」と語ったとされ、東アジアの伝統医学は腹を感情の在処として捉えてきました。「腑に落ちる」「腹で考える」「断腸の思い」――日本語の慣用表現にも、内臓と感情を一続きのものとして扱ってきた身体感覚の名残が残っています。それでも近代の医学は長く、神経と消化を別々の領域として扱ってきました。脳は思考の場所、腸は栄養の処理装置という分業が、20世紀の半ばまで揺らがなかったのです。
私たちの腸のなかには、約100兆個ともいわれる微生物が棲んでいます。種類にして数百〜数千。体重の約2%を占めるその生態系は、誰一人として同じ構成の人がいない、もう一つの「自分」のような存在です。今日選んだ食事は、栄養素が体に入るだけの行為ではありません。腸のなかで百兆もの微生物の生態系を、一食ごとに少しずつ書き換えていく行為でもあります。発酵食品(味噌、納豆、ぬか漬け、ヨーグルト、キムチ)と多様な食物繊維は、その生態系のにぎわいを支え、結果として、迷走神経や血流を通じて脳の落ち着きにつながっていく可能性があるのです。
逆もまた、近年の研究で見えてきています。慢性的なストレスや睡眠不足、抗生物質の頻繁な使用は、腸内の生態系を悪化させ、それがさらにストレス応答を増幅していきます。「気分が沈むから運動しない、運動しないから腸が滞る、腸が滞るから気分が沈む」という日常的な悪循環は、神経科学的にも実体のあるループとして理解できるようになってきました。気分は、頭の中だけで完結する内的な現象ではなく、お腹のなかの同居人たちと毎秒交わしている対話の総体だったのです。
ここまでを毎日に置き直してみます。腸内環境を整えるための処方は、驚くほど単純で地味です。発酵食品を毎日少量、多様な食物繊維を意識的に、加工食品を控えめに、抗生物質は本当に必要なときだけ、十分な睡眠、ストレスを抜く時間。サプリメントを買い足すよりも、まず一週間の食事に登場する植物の種類を数えてみる。米英豪で進められた市民科学プロジェクトは、週に30種類以上の植物性食品を摂る人ほど腸内細菌の多様性が高いという結果を残しています。日本の伝統食は、こうした多様性を自然に内包してきた食卓のかたちでもありました。
気分のかたちは、腸のかたちと、思っていたより深いところで結びついています。今日の食卓は、明日の自分の感じ方を少しずつ編む時間でもあるのかもしれません。「特定のヨーグルトが特定の病を治す」というような単純な因果ではないけれど、自分の腸の生態系を「庭」として捉え、地味な手入れを重ねていく――この視点は、毎日の食卓の意味を、確かに変えていきます。
DEEPER 学術的な観点で深めると ▾
腸と脳の対話を科学のまな板に乗せた最初の人物のひとりが、ロシア出身でフランスのパストゥール研究所のエリ・メチニコフ(1845-1916)です。彼は1907年の著書『生命の延長』で、大腸内の腐敗を老化と病の源泉と見立て、ブルガリアの長寿者が口にする発酵乳の乳酸菌がそれを抑える可能性を論じました。仮説は当時の科学的根拠を超えており長く忘れられましたが、100年後、九州大学の須藤信行らが2004年、無菌マウスがストレス刺激に対して通常マウスより過剰なホルモン応答を示し、特定の腸内細菌の投与で回復することを生理学誌に報告。腸内細菌の有無が「心の働き」にじかに影響することが、世界で初めて動物実験で示されました。同じ時期、東北大学の福土審が過敏性腸症候群の患者を対象に「脳腸相関」の臨床研究を積み上げ、アイルランドのジョン・F・クライアンとティモシー・G・ディナンが2012年、特定の細菌が脳と行動を変える発想を「サイコバイオティクス」と命名しています。腸と脳をつなぐ4つの経路(迷走神経、短鎖脂肪酸、トリプトファン-セロトニン代謝、免疫系)の解像が進み、抑うつ・パーキンソン病・自閉症スペクトラムへの応用研究が世界で加速しているのが現在地です。
ヒトのセロトニンの約9割は腸でつくられていることが機構として確認された(Yano, J. M. et al. 2015, Cell, 161(2): 264-276)。
ベルギーの1,054人規模の腸内細菌コホート研究で、抑うつ症状と特定の細菌群の相関を確認(Valles-Colomer, M. et al. 2019, Nature Microbiology, 4: 623-632)。
腸脳軸研究の年間論文数は、2010年代に約20倍に増加(Web of Science、microbiota-gut-brain axis、2024更新)。
KEY REFERENCE この回の典拠 ▾
- Sudo, N. et al. (2004). "Postnatal microbial colonization programs the HPA system for stress response in mice." J Physiol, 558(Pt 1): 263-275.DOI: 10.1113/jphysiol.2004.063388 / 腸脳軸の動物実験の起点。
- Cryan, J. F. et al. (2019). "The Microbiota-Gut-Brain Axis." Physiological Reviews, 99(4): 1877-2013.DOI: 10.1152/physrev.00018.2018 / 現状を網羅した決定版総説。
- Cryan, J. F. & Dinan, T. G. (2012). "Mind-altering microorganisms." Nature Reviews Neuroscience, 13(10): 701-712.DOI: 10.1038/nrn3346 / 「サイコバイオティクス」概念の出発点。
- Yano, J. M. et al. (2015). "Indigenous bacteria from the gut microbiota regulate host serotonin biosynthesis." Cell, 161(2): 264-276.DOI: 10.1016/j.cell.2015.02.047 / 腸内細菌のセロトニン産生調節を実証。
- Valles-Colomer, M. et al. (2019). "The neuroactive potential of the human gut microbiota in quality of life and depression." Nature Microbiology, 4: 623-632.DOI: 10.1038/s41564-018-0337-x / 数千人規模で抑うつと特定細菌の関連を示したコホート。
- McDonald, D. et al. (2018). "American Gut: an Open Platform for Citizen Science Microbiome Research." mSystems, 3(3): e00031-18.植物食品多様性と腸内多様性の相関。
食卓のかたちが感じ方を変えるなら、では「住む場所のかたち」もまた、私たちの暮らしのリズムを編んでいるのかもしれません。次回は、部屋の高さや窓の位置が心と身体に何をしているのかを、建築環境心理学の系譜から辿ります。
