スーザン・リー・スターが見えないインフラを哲学的に問題化したのと並走して、経済学の側からも、もう一つの大きな問いが立ち上がっていました。「みんなのもの」――森林、漁場、灌漑水路、放牧地、地下水、図書館、インターネット、地球大気――を、人類はどう管理してきたのか。この問いに、半世紀をかけて答えた経済学者が、米国インディアナ大学教授エリノア・オストロム(1933-2012)です。
オストロムが闘いを挑んだのは、1968年に米国の生物学者ガレット・ハーディンが『Science』誌に発表した有名な論文「The Tragedy of the Commons(共有地の悲劇)」でした。ハーディンの論理:放牧地を共有する牧畜民は、各自が自分の牛を増やすことが合理的に正しい。けれども全員が増やすと、放牧地は荒廃し、全員が損をする。共有地は必然的に悲劇に至る、と。だから共有資源は「私有化」か「国有化」しかない、と論じました。
ハーディンの議論は、その後の半世紀、世界中の環境政策・資源政策・経済学教科書の標準的な前提になりました。けれども、オストロムは1970年代から80年代にかけて、世界各地のフィールドワークで、まったく違う事実を発見していきます。スイス・アルプスの放牧地、フィリピン・スペインの灌漑用水路、メイン州・ニューイングランドの近海漁業、ネパールの森林共同管理、トルコ・ノルウェー・スリランカの地下水管理――これらの共有資源の多くが、数百年から千年以上にわたって、住民たちの自己組織化されたルールで持続的に管理されている事例が、無数に見つかりました。
1990年、彼女は集大成の著書『Governing the Commons(コモンズのガバナンス)』(Cambridge UP)を出版します。膨大なフィールド事例の分析から、彼女は「コモンズ管理の8原則」を抽出しました。第一に、境界の明確さ。第二に、地域の条件に合ったルール。第三に、集合的選択への参加。第四に、監視のしくみ。第五に、段階的な制裁。第六に、紛争解決機構。第七に、自律性の承認。第八に、入れ子状の組織化。
この8原則は、世界中の持続的なコモンズ管理に共通する構造でした。コモンズは「悲劇」ではなく、人類が数千年かけて磨いてきた制度的知恵の蓄積である、というのがオストロムの結論でした。
2009年、エリノア・オストロムは、女性として初のノーベル経済学賞を受賞します。受賞理由は「コモンズ・ガバナンスの経済分析」でした。経済学が伝統的に扱ってきた「市場」と「国家」の二項対立に対し、オストロムは「コモンズ」という第3の制度形態を、現代経済学の中核に据えたのです。
オストロムの仕事を発展させたのが、彼女と夫ヴィンセント・オストロムが率いたWorkshop in Political Theory and Policy Analysis(インディアナ大学)です。彼らが体系化した「IADフレームワーク(Institutional Analysis and Development)」は、世界銀行・国連・各国政府の政策立案ツールになっています。
日本では、宇沢弘文(1928-2014)の「社会的共通資本」概念が、オストロムと並走する系譜です。宇沢は『社会的共通資本』(2000年)で、自然環境(大気、水、森林)、社会的インフラ(道路、上下水道、電力、交通)、制度資本(教育、医療、金融、司法)の3つを「社会的共通資本」と呼び、これらは市場や国家の論理ではなく、専門家による職業倫理に基づく管理で支えるべきだ、と論じました。
見えないインフラの根底に、見えない制度的知恵が積み重なっています。
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オストロムのコモンズ論を、現代経営に応用すると、3つの実用的視点が立ち上がります。
第一に、自社が依存する「コモンズ」の特定。多くの企業の事業は、市場でも自社所有でもない「コモンズ」に依存しています。オープンソース・ソフトウェア(Linux、PostgreSQL、Python)、業界の共通データ(OpenStreetMap、CCのライセンス)、業界の共通規格(Bluetooth、IEEE)、地域コミュニティ(地域の人材プール、地域の文化)、自然環境(水、森林、海洋資源)。これらのコモンズが劣化すると、自社の事業も劣化します。コモンズへの貢献は、長期的な経営判断として、株主への配当に並ぶ重要性を持ちます。
第二に、「自社版コモンズ」の意識的な育成。プラットフォーム企業、SaaS企業、エコシステム経営の中核には、しばしば「コモンズ的な共有資源」があります。Apple App Store、Salesforce AppExchange、AWSサービスエコシステム、Shopifyアプリ市場――これらは厳密には自社所有ですが、オストロムの8原則を意識した運営によって、サードパーティ開発者・パートナー・顧客の多元的な参加を持続させています。
第三に、「ポリセントリック・ガバナンス」の組織応用。オストロムが晩年に重視した「ポリセントリック(多中心型)ガバナンス」――一つの中央集権ではなく、複数の自律的な意思決定中心が連携する仕組み――は、地球温暖化対策、グローバルサプライチェーン、デジタルプラットフォーム規制などで、最も有望なガバナンスモデルとして認識されつつあります。組織内では、ホラクラシー、ティール組織、自律分散型組織がこの系譜にあります。
コモンズは、市場でも国家でもない、第三の制度です。
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2. 異分野からの発展的視点 ― アクセルロッドのトーナメントが見つけた「Tit-for-Tatの強さ」
ハーディンが「共有地の悲劇」を提唱した1968年から十余年、米ミシガン大学の政治学者ロバート・アクセルロッド(Robert Axelrod)は世界の研究者に問いを投げました。「繰り返し囚人のジレンマで、最も成績の良い戦略は何か」。経済学・心理学・数学・コンピュータ科学の研究者が、自分が考えた戦略をプログラムとして提出し、コンピュータ・トーナメントで対戦させたのです。
結果は意外でした。勝ったのは、最も短い戦略「Tit-for-Tat(しっぺ返し)」 ―― アナトール・ラパポートが提出した、たった4行のプログラムでした。ルールは単純です。(1)最初は協力する。(2)次の手では、相手の前回の手をそのまま真似る。これだけで、200を超える戦略のなかで長期的に最も高い得点を得たのです。アクセルロッドはこの結果を1984年の著書『The Evolution of Cooperation』(Basic Books、邦訳『つきあい方の科学』)にまとめ、強さの4条件として「最初は親切・報復可能・寛容・明快」を抽出しました。
オストロムが世界各地のフィールドで観察したコモンズ管理の8原則 ―― 境界の明確さ、地域条件に合うルール、参加、監視、段階的制裁、紛争解決、自律性、入れ子構造 ―― は、アクセルロッドの4条件を共同体スケールで実装した制度的具現化でした。市場でも国家でもない第3の制度は、進化が選んできた協力の数学の上に立っています。
次回は「上下水道の文明史」をお届けします。
