物理的な場の歴史を辿ってきた本章ですが、もうひとつの場の系譜を欠かすことができません。インターネット上に立ち上がってきた、まったく新しい種類の越境装置です。
オンラインの越境のはじまりは、1969年のARPANETまで遡ります。アメリカ国防総省の研究機関がカリフォルニア大学ロサンゼルス校とスタンフォード研究所を接続し、初めての電子的なメッセージが送られた瞬間。当初は研究者同士の純粋な技術連絡のための装置でしたが、やがて1971年、最初の電子メールが、その後1979年、Usenetという掲示板的なシステムが、それぞれ予想外の方向に育ちはじめます。
決定的な転換点は1991年です。フィンランドの大学院生リーナス・トーバルズが、Helsinkiの自分の部屋から「お遊びのプロジェクト」として小さなOSのコードをインターネットに公開しました。それがLinuxです。世界中のプログラマーが、誰の許可も得ずに、コードを修正し、機能を追加し、互いにレビューし、また公開する。これが今日のオープンソース運動の原型になりました。1999年にエリック・レイモンドが書いたエッセイ『伽藍とバザール(The Cathedral and the Bazaar)』は、この現象を「中央集権的な伽藍型開発」と「分散自律的なバザール型開発」の対比で論じ、後者が前者よりはるかに高品質なソフトウェアを生むことを示しました。
2008年、Tom Preston-WernerらがGitHubをリリースします。Linuxの分散型協働の文化を、Webサービスとして万人に開いたものです。プログラマーがコードを公開し、見知らぬ世界中の他者がそれを「フォーク」して改変し、「プルリクエスト」として元の作者に提案する。10年後、GitHubは1億人以上の開発者が登録するプラットフォームに成長しました。日本の地方都市の高校生が、シリコンバレーのスタートアップのコードに貢献し、それが採用される、という越境が日常化しました。
2015年にジェイソン・シトロンらがDiscordをリリースします。当初はゲーマー向けのボイスチャットでしたが、コロナ禍以降、研究者コミュニティ、書籍読書会、地域コミュニティ、教育分野へと急速に広がりました。MITの量子物理研究室、ハーバードの哲学コース、東京の俳句愛好会、地域の料理クラブが、同じプラットフォーム上で緩やかに共存しています。
学術側では、1991年にジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーが『状況的学習』を発表し、学習を「正統的周辺参加」――新参者が共同体の周辺から徐々に中心へ歩んでいくプロセス――として再定義しました。1998年のウェンガーの『実践共同体(Communities of Practice)』は、オフラインのギルドからオンラインの開発コミュニティまで、すべて同じ構造で説明できると示します。
オンラインの越境は、物理的な距離を消した代わりに、新しい種類の周辺と中心を生んでいます。
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組織におけるオンライン越境の経営的活用には、3つの典型的な道筋があります。
第一に、社内Discord・Slack・Teamsのコミュニティ化。多くの企業はSlackを業務連絡ツールとして使っていますが、本来のオンラインコミュニティの力を引き出している組織は、業務外チャンネル(趣味・読書・育児・旅行)の濃さに本気で投資します。GitLabは2014年から完全リモート組織で、社内Slackには500を超えるチャンネルがあり、技術論争、地域別雑談、子育て、グルメなどが活発です。これは「業務効率の浪費」ではなく「組織記憶と相互信頼の蓄積」です。
第二に、オープンソース貢献の業務化。GitHub、HuggingFace、Apache等で、自社エンジニアが業務時間で外部プロジェクトに貢献する文化を持つこと。Microsoft、Google、Meta、Salesforceなどの大手は、これを標準化しています。短期的には「自社の利益にならない」と見えますが、長期的には人材の引き寄せ・残留、業界知識の最新化、外部コミュニティとの信頼関係の構築につながります。
第三に、実践共同体(CoP)の社内設計。ウェンガー的な意味の実践共同体を、社内・グループ会社横断・業界横断で意識的に育てる。代表例はトヨタの「ジショ会」、IBMの「Communities of Practice」プログラム、World Bankのナレッジ・コミュニティ。これらは正式な組織図には現れない、けれど確実に組織の知の質を底上げする裏のインフラです。
ただし、オンラインコミュニティは「設計すれば生まれる」ものではなく、「条件を整えれば、自発的に生まれる」場の典型です。第I部第1章「自発交流」の系譜と、深いところで地続きです。
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2. 異分野からの発展的視点 ― ワッツとストロガッツが解いた「6次の隔たり」の数学
世界中のどんな知らない人とも、知人を6人辿れば繋がる ―― 1967年にミルグラムが手紙の連鎖実験で示したこの「6次の隔たり」は、長らく逸話として知られていました。しかしその仕組みを数学的に解き明かしたのは、米コーネル大学の物理学者ダンカン・ワッツ(Duncan Watts)とスティーブン・ストロガッツ(Steven Strogatz)の1998年の論文です(*Nature* 393巻, 440-442頁)。
彼らは線虫の神経網、米国西部の電力網、ハリウッド俳優の共演ネットワークという全く異なる3種を比較しました。3つすべてに共通したのは、高いクラスタ係数を保ったまま、平均経路長が驚くほど短いという構造です。コンピュータ・シミュレーションで、規則格子のリンクをわずか1%だけランダムに張り替えるだけで、平均経路長が劇的に短くなることを彼らは示しました ―― 「ご近所付き合い」を保ちながら全世界が繋がる、いわゆる「スモールワールド・ネットワーク」の発見です。
ARPANET、Linux、GitHub、Discord、Slack、X(Twitter) ―― オンラインの越境が成立するのは、これらのプラットフォームが、ワッツとストロガッツが定式化した小世界構造を世界規模で実装しているからです。1%のランダムな繋がりが、知らない誰かとの距離を一気に縮めている。地球の反対側のオープンソース開発者と数時間で対話できる現代は、20世紀末の数式の延長線上にあります。
次回は「フェスと祭りのなかの越境」をお届けします。
