社会を動かす大きな思想が生まれた場所、と聞いて、最初に図書館や大学を思い浮かべる方は多いはずです。けれども17世紀後半のロンドンでは、そういう公式の場所より、もっと混雑したところで思想が育っていました。コーヒーハウスです。
ロンドン最初のコーヒーハウスは、1652年、ギリシャ系の使用人パスクワ・ロゼがコーンヒルにひらいたとされています。それから半世紀のあいだに、ロンドンには3,000軒以上のコーヒーハウスが立ち並ぶようになりました。入場料は1ペニー。コーヒーは2ペニーほど。当時の労働者にも届く金額で、しかし酒場と違って酔わずに長時間粘ることができる。そこでは商人と学者と詩人と政治家が、身分と肩書きを置いて、テーブル一つを囲んで議論を続けました。1ペニーで賢くなれる場所、と人々は冗談まじりに「ペニー大学」と呼びました。
特定のコーヒーハウスは、特定の知の場として機能していきます。ロンドン・タワーの近く、エドワード・ロイドが1686年にひらいた店には、海運業者と保険業者が集まりました。ロイドが船舶情報を整理し、参加者に売り買いさせるうちに、それはやがて世界最大の保険組合「ロイズ・オブ・ロンドン」となります。グレシャム・カレッジの近くのジョンズ・コーヒーハウスには、自然哲学者たちが集い、その議論はやがて1660年に王立協会として制度化されました。アイザック・ニュートンも常連でした。詩人ジョナサン・スウィフトも、ジャーナリストのジョセフ・アディソンも、思想家ジョン・ロックも、コーヒーハウスを書斎の延長として使っていました。
20世紀のドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、1962年の『公共性の構造転換』でこの現象に学術的な名前をつけました。コーヒーハウスやサロンが、王侯の宮廷でも教会でもない、市民が立場を超えて議論できる「公共圏(Öffentlichkeit)」を生んだ、というのです。コーヒーハウスは単なる飲食店ではなく、近代民主主義と啓蒙思想を孕む実験室でした。
注目したいのは、これがある種の偶然の合流点だったことです。コーヒーは1640年代にオスマン帝国経由でヨーロッパに入ってきた新顔の飲料。印刷物のコストは下がり続け、新聞が日刊化していた。市民階級が経済力をつけ、宮廷の囲い込みから自由な情報の流れを必要としていた。素材・装置・制度・人――この4つが17世紀後半のロンドンで、たまたま、しかし必然のように出会いました。
そこから3世紀のあいだに、保険、新聞、株式市場、政党、自然科学、文芸批評――いまの社会の基幹装置の多くが、コーヒーカップの湯気のなかで生まれました。
場と素材と人が、ある密度で出会うとき、社会は新しい器を生みます。
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コーヒーハウスのケースが現代の組織に与えるヒントは、「異質な専門家の偶発的接触が、計画的な研究投資より大きなイノベーションを生むことがある」という事実です。1990年代以降、経済学者アダム・ジャフィーやアダム・ボハールらが「知識のスピルオーバー(knowledge spillovers)」という概念を発展させ、シリコンバレー、ボストン128号線回廊、深セン、テルアビブといった「集積するクラスター」がなぜ高い革新性を持つのかを実証しました。距離が近いと、論文には書かれない、しかし大事な暗黙知が漏れ出す。
経営に活かす視点は3つあります。第一に、自社の「コーヒーハウス」を意識的に持つこと。社内カフェ、横断ランチ、月次の異業種研究会など、所属を越えた偶発的接触の濃度を高める仕掛けを設計する。GoogleのTGIF、Pixarの中央アトリウム、近年のアレクサンドラ・ストッダードの「Coffee Corner Strategy」は、すべてコーヒーハウスの末裔です。
第二に、外部のコーヒーハウスへ社員を派遣すること。業界外の勉強会、社外コミュニティへのスポンサーシップ、フェローシップ制度。社員が業界外の人と日常的に出会う設計が、長期的な事業発見の母数を上げます。
第三に、ペニー大学の精神――1ペニーで賢くなれる――を社内文化に根付かせること。ナレッジ・シェアリングを「成果」ではなく「日常」として制度化する。研究紀要、社内Wiki、月次LT会、書籍読書会。継続することが資産になります。
イノベーションは、計画から生まれるよりも、ふとした出会いから生まれることが多い。その「ふと」を組織がどれだけ高密度で再現できるかが、長期競争力を決めます。
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2. 異分野からの発展的視点 ― セントラが解いた「行動変容には複数経路の補強が必要」
なぜ17世紀ロンドンに3,000軒ものコーヒーハウスが密集した瞬間、科学革命と新聞と保険業が同時多発したのか。米ペンシルベニア大学のデイモン・セントラ(Damon Centola)は2010年、この問いに別の角度から答えを与える実験を発表しました(*Science* 329巻, 1194-1197頁)。
被験者1,528人をランダムに「クラスター型ネットワーク」と「ランダム型ネットワーク」に振り分け、健康行動(フォーラム登録)の伝播速度を測ったのです。直観に反して、知り合いが多く重なるクラスター型のほうが、無作為に長距離リンクを張ったランダム型より、行動の伝播が速かった。後者は噂の伝染には強いが、行動を変えるには弱い ―― 行動の変容には、複数の知人から同時に補強される「複雑伝染(complex contagion)」が要るのです。
ロンドンのコーヒーハウスは、この「複数経路からの同時補強」を物理的に実装した装置でした。1ペニーで誰でも入れる場が3,000軒密集すれば、商人・科学者・政治家・職人が同じ話題を別の店で複数回・別の口から聞ける。世界観を書き換える行動変容の閾値を、社会の側が下げたのです。ニュートンの『プリンキピア』、ロイズ船舶保険、『スペクテーター』創刊が四半世紀で連鎖したのは、複雑伝染が起こりうるネットワーク密度に達した結果でした。
次回は「サードプレイスの社会学 ― オルデンバーグ再読」をお届けします。
